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2019_10
17
(Thu)00:46

台風が来て、考える

10月の3連休、関東を直撃した台風。
想像以上の甚大な被害に、僕は凡庸に驚くしかできないでいる。
阪神淡路大震災、東北の震災と地震は一応経験しているが、台風で避難まで考えるところまで行ったのは初めてだ。
そして、「避難」という言葉に僕はひどく狼狽している。

東京に来て20年弱、何度か台風や豪雨による河川の氾濫などの災害に面することはあったが、実際に避難を想定して行動することはなかった。
今回だって、テレビやネットニュースで煽ってるのかと訝しむくらいに警告されているのを「そんなに言われても…」とズレた認識だった。
でも、初めて河川氾濫の警報を耳にして、マンションの住人総出で入口に土嚢を積んだ時。
「あ、これはマジで避難とか自宅の防災をやらなきゃいけないんだ」と実感した。
おぼつかない手つきでベランダの窓を養生し、浸水を防ぐためにビニールを貼り付けた。
念のためにと一時避難所へ向かう荷造りをした。

その時、ふと考えた

「お前、避難所に行くつもりか?」
「まだ生き残ろうとしてんの?」
「つーか、避難所に行って、お前が入れてもらえると何で思った?」
「よしんば入れて貰えても、すぐ追い出されるのに」

当たり前の顔をして、荷造りして、避難所に行くことを想定している自分に、吐き気がした。

生きようなんてまだ思ってんのか?
そして、当たり前みたく避難所に行こうとしてるのおかしいだろ。
入れて貰えるとでも?

――結論から言うと、僕は避難所に行かず台風をやり過ごした。
そして、台東区の避難所でホームレスが断られた旨の記事を見て、得心がいった。
そういうことだよ、と。

台東区はもともとホームレスや困窮者が多い事情もあって、行政が彼らに向ける目がそもそも冷たい。
いつもいつも煩わせやがってという苛立ちが、露骨な排除につながった。
でもこんなのは端緒に過ぎない。
今回ホームレスだったというだけだ。
何かを基準にして「避難所に入れていい/悪い」を決めて良しとするなら、そこにいろんな言葉を代入できる。
生活保護受給者、引きこもり、精神障害者、その他…

避難所という非常時の居場所に最も居て欲しくないものを挙げていけば、おのずと次の標的は見えてくる。

だから僕は「行政の支援」なんてものを無条件に信じてはいけないんだ。
「ただし●●は除く」が行間に存在することを忘れてはだめだ。
僕が入ってもいい避難所なんて無いし、そもそも助かるために行動する選択をするのがおかしい。
自分の不覚悟を強く戒めよう。




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2019_10
10
(Thu)19:20

学校は監獄、社会は地獄

いじめが原因で死ぬ人間が増えていく一方なのに、いじめが犯罪にならない不思議な国。

いじめ自殺した少年事件の先駆けが、東京の中野冨士見町にあった中学でのいじめであろう。
あの事件も昨今のそれと変わらず生徒同士のみならず教員も関わっていたわけで、
もう21世紀なのに根っこの腐り具合は何も変わってないことに言葉も出ない。

ここ数日メディアがはしゃいで報道している神戸市の学校内総動員いじめ事件なんて、見るのも嫌になる。
安全な場所で権力をふるっていられるならば、人はどれだけえげつないことだって出来るのだというクソ汚ねえ生き見本だ。
これが教育の世界だというのなら、子供は今すぐ国外で育てようと強く思うし、何ならそのまま戻らなくていい。
子供にとっては誰かを踏み殺さなければ卒業できない監獄、それが学校。
大人にとっては子供を守り育てる以前に自分が圧殺されかねない地獄、それが教職。
共通するのは、「誰も助けてくれない場所=学校」だ。
学校どころか、社会だって似たようなものだ。

勉学や部活じゃなくて、学校では「転んだら徹底して踏みにじられる。誰も助けてはくれない」日常を知る。
そんな場所で生き抜いたとして、大人になった彼らの認識する世界は、所詮その延長線上にしかない。

教育ってそういうものなのか。
助けを求め、理不尽を訴える者の言葉を無視して状況を放置した挙句に壊れたら部品みたく棄てて
「そんな事実はアリマセン/いじめの認識はアリマセン」を臆面もなく繰り返すのが、教育現場の上層なのか。
涙なんて生理現象だからいくらだって垂れ流せるし、そんな薄汚い液体はしまっとけ。
ずっと安全地帯から高みの見物を決め込んで薄笑いしてたヤツらが泣いてどうしようってんだ。
情状酌量でも乞うつもりならどんだけ浅ましい根性してんだろな。ああ、だから放置してられたのかw

泣く資格があるひとは既に教壇から去ってしまったのに。

僕は小中時代、時代の価値観も重なって手酷い管理教育の坩堝に放り込まれた。
所謂団塊ジュニア世代なら、まあまあ共感を得られるかも知れない。
学校は監獄と前述したが、全くもって比喩でなくそういう世界にいた。
生徒同士だけでなく教員も荒んだ場所で、気に入らなければどこで殴られるか判らないから学校では警戒レベルが常に上限値だった。
幸いにも高校で「学校は監獄とは限らない、教員は人間なんだ」という大発見を得たためどうにか成人に漕ぎつけた。
…それからだいぶ経つのに、いまこの状況は何なんだ。

この国でひとを育てるなんて、もはや絶望でしかない。
生んで育てる行為に散々横やりを刺された挙句にいつどこで殺されるとも知れないのに(教育機関も信用出来ない)。
いじめでぼろぼろにされても殺されても誰も裁かれないなんて、どうかしてるよ。

教育に対する信頼なんてとっくに消えたよ。あるとでも思ってたのか?思い上がりも大概にしろ。
信じてはだめだと学んだよ。あんたらの言動から。
自分の立場可愛さに他人をぼろ雑巾にする、その有りようから。
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2019_10
08
(Tue)17:22

人間の条件

人が人であることに条件や基準や承認など要らない。
それらを要求できる人間など居ないし、それらを義務付けられる人間も居ない。

認めて欲しいと願い過ぎて力尽きる者、他人に条件クリアを求めて無限に試し続ける者
彼らの視野にあるのは「他人の目に映る己の見栄え」でしかない。
いつだって彼らが気に病むのは他人の視線で、自分のための承認欲求ですらない。
他人に認められる自分 を 目に留めて 賞賛してくれる他人 を更に欲しているだけ。
そりゃあ死ぬまで満たされないよな。
この世にいる全ての他人(の承認、賞賛)が欲しくてしょうがないんだから。

そんなスケールでかくねえよと反論の向きもあるだろう。
残念だけど、誰かひとりの承認を得た者は、それで満足しないしできない。
だってそうだろ、自分を認める基準が常に他人に託されているんだから。
日々いろんな他人と出会う、別れる、また新たに出会うことを繰り返す中で、
その時々に下される他人からの評価はてんでバラバラだ。
Aさんは良いって言ってくれたけどBさんはけちょんけちょんにこき下ろした、って具合に。
どっちを評価として受け入れるのか、両方か、もっと違う評価を求めるか…
どうよこの不安定さw

自分のなかに物差しが無い恐ろしさを、ひとはあまりに自覚しなさすぎる。

繰り返すが、人間であることに条件や承認など要らないのだ。
何故なら人間は、そもそも自分で自身の証しだてをできる生き物だから。
自分の歩いてきた道、歴史、関わって来た物事、周囲の環境、過去から現在をつなぐ時間の中で、
「自分が自分である所以」が必ず形成されている。
自分という人間の「価値」として見いだせるものだし、価値とは主観だから他人の評価に1ミリも関係ない。
価値を知っていれば、他人からの評価や承認にいちいち振り回される必要がない。
聞く耳持つなってことじゃない。聞くだけ聞いておけばいいってことだ。
他人からの言葉は情報として貰っておく。取捨選択の権限は僕らの手にあるんだ。

「せっかく助言してあげたのに聞き入れないなんて」と文句言うヤツ、多いよなー。
”命令”じゃねーんだから、助言として発した以上、相手が無反応でも文句言う筋合いないだろ。
仮に命令やそれに準ずるものだとしても、本人には選択権がある。
聞き入れないなんてひどいと非難するヤツは、ハナから助言のつもりでなく”聞き入れさせる”つもり満々で相手に押しつけてるだけだよ。
そんな助言が相手にとって本当に意味のあるものか?
誰かのためを思う言葉であっても、相手がそれを拒む可能性を含めて「それでもいい」と思えないなら、口にしないほうがいい。



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2019_09
30
(Mon)17:36

選ぶという行為の惨さと強さ

これって学校は謝罪するようなことなのかと頭を傾げる僕です

死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪

まあちょっと現代っ子には刺激の強い題材ではあるけどね。
でも学校が頭下げることかと言うと、そんなこともない。
こんなことが記事になるのは、我々現代人が、大人も子供も「命を預ける/預かる選択」に対して逃げ腰であるという証拠だ。

トロッコ問題は典型的な例題だけど、他にも「冷たい方程式」「テロ」が挙げられる。
「冷たい方程式」は、SF小説等で頻出するテーマ。
1人乗りの宇宙船が宇宙飛行士を乗せて目的地に向かう途中、密航者の少女が発見される。
水や食料、酸素の積載量はひとり分(宇宙飛行士が着くまでの)しかない。
少女を船外に放り出せば任務は遂行できるが、同時に少女を見殺しにすることになる。
でも2人分の糧食や酸素は賄えないから、いずれどこかで尽きて死ぬ。
どうする?という問い。

「テロ」は、ドイツの作家シーラッハによる戯曲『テロ』。
こちらの方がよりトロッコに近いだろうか。
要はハイジャックされた航空機をサッカースタジアム上空で撃墜するか(観客や周辺住民、乗客が犠牲になる)
ハイジャック犯の要求を呑んで大都市圏まで飛行させるか(テロの目的はココなので、より多くの住民や乗客が犠牲になる)
…こっちの方がだいぶえげつないけど、この戯曲は観客参加型になり得る構成になっている。
このテロ事件にはちゃんと結末があり、テロ制圧に向かった軍人が独断で航空機を撃墜するという衝撃的な展開になる。
この軍人をどう裁くのかが、観客に委ねられるのだ。

単純に人数を想像するだけで、『テロ』のえげつなさとしんどさが圧倒的である。
人数の問題じゃないと解っていても、何故か僕は人数を想像してしまっている。
恐らくは大部分の人が、この「人数」や「誰を選ぶか」につまづくんじゃなかろうか。
(そこじゃない)と思うのに、不思議だよなあ。

普段の生活ではなかなか自覚できないが、僕らは当たり前に「誰かを選ぶ/選ばない」を繰り返している。
好きな人と両想いになるのは幸せと言えるが、別の見方をすれば他の誰か(もしかしたら自分を思ってくれてる)を選ばなかったということだ。
もちろん、”ほかの誰か”のために両想いの相手をわざわざフる必要はない。
それはそれで、眼前の相手を「選ばない」と同じことだからだ。
自分に思いを寄せる誰かにとっては、振り向いてくれないなんてひどいと嘆きたくなるかも知れないが、
選ばれなかったというだけのことだ。それは別に「人を選別するなんて酷い」ということにはならない。

ちょっと甘酸っぱい系の例えで僕が背筋寒くなったw
はい、ココで僕向きのサンプルー!

災害時の救急医療において、負傷者の治療順を決める「トリアージ」。
身も蓋もない言い方をすれば、治療して回復が見込める人間を優先して助けるために行われる方法だ。
負傷の度合が酷く、治療行為を尽くしてもある程度までの回復も望めないとなれば、その命は選ばれない。
全員を助けたいのが誰しもの願いだが、見込みのない負傷者に施す医療行為や医薬品を、より軽傷の者に回すことで「1人でも多く助ける」選択をする方がマシという考え方と言える。
地震や台風が災害となって降りかかるたび、この問題も取り沙汰される。
「目の前で重傷の家族が見捨てられる」と想像するだけで嫌な気分になる人も多いのだろう。
僕は人でなしと言われ慣れてるので言ってしまうが、
私情を優先して見込みのない人間に治療を続けるうちに、他の誰かが助かるチャンスを失うかも知れないとしたら、
それは救急医療として適切とは思わない。
命を選ぶのは、見捨てることと同義じゃない。助かる命をひとつでも多く拾い上げるしかない、そういうことだ。

例題の話がだいぶ長くなったが、変な情緒や感傷を優先するほうが、結果的に損なわれるものが多い。
この手の話に正解は存在しないし、その時の各自が下した判断を責めるほうが残酷だ。
肝心なのは、「選ぶ」ことを恐れないこと。
生きる限り何かを選ぶと同時に捨てることになるし、自分だけでなく誰もがそうである。
トロッコ問題を授業で取り上げたことはそれなりに意義あることだと僕は思う。
不安を感じた子供たちは(正直、ひ弱だなとはゲフゲフ)
…結局、僕ら大人たちがいつまでも逃げ腰でいるからいけないんだよな。

ちょっとばかし心を鍛えるためにも、つかもうちょっと柔軟な心になるためにも。
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2019_09
25
(Wed)13:57

他人から学ぶと地肩は強くなる

お笑い(に代表される笑いの表現全般)と差別的表現はいつだってスレスレなんだ。

「大坂なおみに必要なものは?」「漂白剤」人気芸人のネタに批判殺到 事務所は「配慮に欠く」と謝罪

最近の事例で言うと、とろサーモンの「更年期障害」発言からの業界ちょい揺れなんかも該当するだろうか。
お笑いのバラエティやライブイベント、さらに広げればコメディ演劇や映画、ドラマもそうであろうが、
総じて「笑い」という表現は、誰かを傷つけるような嗜虐を含む暴力的な性格を持つ。
シチュエーションコメディで典型的に見られる「困った状況に陥って右往左往する主人公」を見て僕らは笑うけれど、
あれは客席という安全地帯に居るから安心して笑っていられるだけだ。
フィクションだから笑ったっていいじゃない、という言い分もあるだろう。
勿論笑ってもらうための作品である以上、そこに罪を喚起しても意味はない。
肝心なのは、「困っている主人公を笑って見ている僕ら」という、己の立場の相対化だ。
誰かを笑ってニヤニヤしている僕らは、本当はとても意地が悪いし性格が悪いんだという自覚が、あるのかってことだ。

フィクション以外に話を移せば、例えば公衆の面前で笑われて恥ずかしい思いをすると言った場面。
笑う方に悪意がなかったとしても、それは単に「相手の羞恥心を感じるセンサーがぶっ壊れてる」だけだ。

他者の感覚に想像が全く働かない鈍感さ。
己の「笑う」が「嘲う」と同義に変質していることに無自覚な無知蒙昧さ。

ひとつひとつの事例を取り上げて「これはダメ、あれもダメ」と個々の表現に検閲を入れたって意味が無い。
問題なのは、「こんなのも差別なの?そんな認識なかった」で片づけてしまうことで、
結局過去に取り沙汰された事例から何ひとつ学ぶことなく同様の事例を拡大再生産していくことだ。

上記にリンクした大坂選手の件に関して言えば、いまどきこんなこと言うヤツいるのかと驚いた。
もはや肌の色を云々する表現がただの笑いネタとして通る時代ではないのに、
昭和のネタをまんま引っ張った感じが否めない。
例えばシャネルズとか、今絶対できないだろ。それが何故なのか考えもしないところに、無自覚の闇が在る。
Aマッソというコンビは恐らくシャネルズという単語すら知らなかった可能性が大だが、それとは無関係に彼らの悪意は潜んでいる。
お笑いの世界にもとっくに「そういう表現はダメだよ」という波は打ち寄せていて、
業界人は窮屈だと感じながらもそれぞれの表現で限界値を探っているはずだ。
どこがダメかというラインを知るには、結局過去のネタやNG表現の事例を遡るのが妥当な策だろう。
どれほど煩わしくても、「学ぶ」しかない。他人の経験を集めて得たものに、何を足していけるか。

笑いに限らず、誰も傷つけない表現なんてものは存在しない。
お笑いでネタを披露すれば、笑う客がいる一方で不快になる客もいる。
作り手にできることは、「作り手ゆえの罪」を背負いながら、誰かの「不快」を嘲笑うことなく強靭な笑いに改造すること。
「あれもダメ、これもダメ」じゃ表現の選択肢がしぼむだけだ。
使えない道具なら、使えるように改造すればいい。
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