FC2ブログ
2020_07
10
(Fri)10:29

腹を括って生きていく

この国の自殺率や自殺者数の数字がべらぼうなものとは周知のことで
簡単に自死できそうな錯覚を抱いてしまうけど、
この年まで生きてしまうと、自力でどうにかすることがかなり大変だと判ってしまう。
失敗を重ねるほどに難度も上がるし周囲も警戒してくる。

本気で頑張っても完遂できないことは多々ある。
僕は、全ての準備とタイミングとが絶妙に合致して――それこそギャンブル感満載――生きている自分の力を全部使い果たす勢いで”やって”初めて完遂し得る条件を満たすのだと考える。

望みを叶えることが難しいと気づいてから、僕の指針は「人生は死ぬまでの消化試合」になった。
生まれてきたことが大損の身としては、残り時間なんぞその程度と思わなければ、とても生きていかれないと思ったからだ。
半年後、1年後、数年先のビジョンすら持てない。
冗談や大げさではなく、1日を平穏無事に終えることを自らに課して生きてきた。
そんな人間に年単位のビジョンなんて考えられるわけない、「1日」が最大値なんだから。
そして1日を無事に過ごせるかと言えば、人生で一度もできなかった。
どこかで地雷を踏み、誰かに怒鳴られ殴られ、世界中から愚弄された。

自力で死ぬのも、生きるのも最早面倒になって数年。
消化試合という義務的な時間を、どうにか遊んでやり過ごすなかで、僕の感覚は過剰な鋭敏さを研がれていく。
聞こえすぎる。音がするたびサンドバッグにされたような痛みを覚える。世界中の音が自分を殴殺しにかかってくるような。
同時に嫌と言う程思い知らされる、「誰にも伝わらない感覚」だという事実と、「そんなこと知るか」という他人事の言葉。

生きていたくもないこのドブみたいな世界で、それでも試合をしている。
生きることを義務づけるならば、もっとマシな世界を提供しろや。
「ちゃんとしろ」と要求するならば、ちゃんとするに十分な世界で生まれたいもんだ。
スポンサーサイト



  • 記録
2020_06
15
(Mon)17:51

距離と立ち位置は3D

またぞろ都内のコロナ感染者数がじわりと伸びている。
日毎に気温も湿度も上がる、梅雨時らしく雨も降る。
夏になったらと危惧していた新たな感染パターンが姿を現そうとしている。
台風、集中豪雨、水害や土砂災害が起きれば上下水道の機能が損なわれる。
水――飲食や排泄を介して流行る感染症は毎年恒例だったけど、コロナはどうなるんだろう。
無視も軽視も出来やしないのに、人々は以前の習慣を取り返すように電車に乗り、職場へ向かう。
手をつなぎながら連れだって外出し、見知らぬ他人のすぐ横にポジション取りしてくる。
商業施設の中でも、レジ待ちの列でも、電車の座席でも、当たり前のように。

距離って何なんだ?

僕は、マスクはもう絶対アイテムではないと思っている。
ハンカチやタオルで口を覆ったとしても大差ない。無論マスクが100%万能じゃないからこその”大差ない”だ。
問題は「距離」だ。
近距離、タイマンは大抵の人がまだそこそこ怖いと考える。そういう時にはマスクやハンカチを使えばいい。
でも電車や建物の中、受付ブースと仕切られた外側のロビーと言ったある程度の距離を担保し得る場であれば、
マスク等は必須でなくていいんじゃないか。

別の見方をするなら、「一定の距離を保ち得る状況を作る」ことが肝要だ。

例えば、現状ではレジで透明のビニールカーテンを吊るして客との間に物理的壁を作っているのを生かしたままで、聞き取りづらい会話や音声をカバーするために必要に応じてマイクを使えば高齢者とのやり取りもスムーズに行えるのではないか。
駅の有人改札口みたいな感じで。
店員がいちいち大声を張らなくても聞こえる環境を作ればいいんだ。

サンプルとしてひとつしか挙げられなかったが、これが医療・介護、或いは託児所や病児ケアといった場だと難しくなることは容易に想像がつく。
目的、対象、手段が全て人間に紐づけされる分野だからこそすぐには替えが利かない。
技術で全てをカバーし得るかと言えば、現時点では当事者から否定的な空気が発せられる。
それだけ彼らにとって”人との接触”で可能になる諸々は大事なんだろう。
――心とか感情とか情緒と称される、温かさを持つらしい正体不明のナニカは。

物理的な距離と、心の距離とでは、比較するだけ無駄だ。
近すぎて害毒にもなる情動は多々存在するし、離れて生きることで安寧を得る関係性も多々存在する。

ちょっと抽象的な話になってしまうが、物理も心理も”距離”を認識する時は3Dなのだ。
座標軸の内側に位置を取って、他の誰かの位置も確かめる。
絶対に縦横だけじゃない位置関係が見えて来る。
  • 記録
2020_05
27
(Wed)10:55

ここで終わりじゃない

緊急事態宣言が下げられた。
これは一区切りだ。
終わりじゃない。

誰もが等しく感染する/させるリスクを負いながら、
見えない脅威やそれに連なる自警団みたいな自粛ポリスから醸成されるきな臭い瘴気に巻かれながら、
多くの人々は恐るべき忍耐を以て自粛強要の地雷原を歩き抜けた。

もちろん犯罪に手を染めた者もいる、恐怖や不安から来る不当な怒りを無関係の他人にぶつけまくったアカンタレもいる。
それはそれで裁かれるべきだ。自裁であれ、法廷であれ。
決してリンチであってはならない。
どんな状況であったとしても、僕らは私的な根拠を振りかざして他人を裁くことはできないのだから。
誰かの個人的な正義で、誰かをジャッジしてはならない。
たとえどれほど「正論」だとしても、他人に押しつけた時点で何の説得力もなくなる。
――押しつけなければ伝わらない論なんて、ただの独善。

先ほど「恐るべき忍耐」と評したが、まさしくそうなのだ。
一部の人々にとっては過剰ですらあっただろう、耐え忍ぶ日常生活だった。
第二波、またそれ以降は当然襲い来る。どれほどのレベルか、また期間なのか。
何も分からないという点で、今春の時とさしたる差はない。
多少なり経験と教訓を得た、それを礎にして「この先の日常」を探るのだ。
これから先、冬のインフルのようにコロナと付き合っていく日常を生きるのだから。
インフルが冬に来るように、コロナもまた気まぐれに来る存在となるだろう。
嫌な隣人と仲良くせずともいいから「まあまあ上手く付き合っていく」力を養うように。

だからここで終わりじゃない。
めでたしめでたしも無いし、どっとはらいも無いし、もうええわも無い。
人々の忍耐力に過剰な期待をするべきじゃない。
今回は耐えられた「だけ」だ。
二度目はないし、二度目三度目以降も耐えられると勝手に当てにするもんじゃない。

「いつでも来いや!」なんて虚勢は到底張れない。
  • 記録
2020_05
18
(Mon)13:32

無題

演劇カテゴリーで久しぶりに記事を書く。もうそんな機会は無いと思っていたんだけど。
同じ名前の別人だと思ってた、思いたかった。

【吹原幸太が永眠いたしました】

ポップンマッシュルームチキン野郎主宰の吹原さんが亡くなられたとの報。
突然のことだったようで、ツイッターよりもニュースサイトで先に見つけた。
37歳だったそうだ。
じゃあ、8年前はまだ20代で、うわあ…

嘘でしょう?って言葉がこういう状況で本当に出るなんて、考えてもなかった。
僕らの想像の範囲は、何て狭いんだろうね。

一度だけ現場でご一緒させて頂いた。
当時のことを振り返る野暮はしないけれど。


  • 演劇
2020_05
02
(Sat)14:17

需要ないのは解ってる、だから続けられる

コロナウイルスという危機の渦中にある世界は、のたうち回り抗いながらも変わろうとしている。

僕が少なからず驚いていることのひとつに「世界が変わろうとしている」がある。
偏狭と無知蒙昧に凝り固まった人間が上から下まで世界をくまなく澱ませて、見るべきものを隠している。
見られては都合が悪い、知られては困る者たちが、知ろうとする僕らをドブに沈めてきた。
変わりたくない、変わってはいけない、変わると既得権が失われる――
無条件に得てきた特権、当然のものとして他者を虐げるために正当化してきた悪習、何の根拠もなく継承されてきた無意味なレガシー。
様々なジャンルにおいて遺跡のように鎮座していたそれらの行使に「NO」を主張する流れが生じ、過去幾度も退けられてきた流れを広げようと助けの手を伸べる人々が現れた。

世界はもはや変わらない。ひたすら腐敗を極めるように滅亡に向かって一直線に暴走していくんだろうと断じていた僕にとって、数々の主張や思想の潮流、雨後の筍みたいに頭を出してくる文筆家(雑魚多数も含め)は、違和感として認識された。

異変や危機にあってこそ思想や主張は数多生まれる、とでも言うのだろうか。
そういう状況でないと、群衆は他人の意見なんぞ意に介さないという証拠なのだろう。
それはそれで人類のガッカリさの露呈でもある。
特別感はどーでもいいんだよ、日常の思考レベルのアベレージ上げろや。

ここまで書いて気が付いた。
僕は「祭り」が苦手なんだ。その時だけの限定的な高揚に侮蔑にも似た感情を抱いてしまう。
危機的状況とか、非日常に限った話じゃないことで、今ヒステリックに糾弾したり喚いたりの騒ぎが続いている。
普段の生活に根付いた「考える、思想を組み立てる、情報を潤沢に得る」ができてないから、いざという時慌ててしまうんだ。

「考える」ことができない人間に、この先を生きる力は備わらない。

僕らが今しんどい中でも知恵を絞って生きているのは、いま取りあえず生きていければ良いと思ってるからじゃない。
コロナ危機をいつかどうにか越えて、少しでも息をつけるようになった時。
僕らが知っていたかつての日常はもう無いだろう、きっとまったく違う日常が訪れるだろう。
その日常を生きる僕らであるために、いま、歯を食いしばっているんだ。
世界がアップデートされるならば、僕らもまたそれに倣うまでのことだけど、でも。

誰かによってアップデートされた世界に倣うよりは、自分がアップデートした世界で生きていたい。
僕にとっての自由とは、自分が構築した場で、思索を積み重ねて、己が手で動かし得ることだ。

世界で起きている変化に、自分が一端として繋がれるのか。
どうしてもそう信じられない。いつも言うけど「需要がない」から。
解りやすくもない、長文で読みづらい、意味不明w
…だからこそ、こうして書き続けてられるんだ。
無責任だろうか?否、相手に合わせて噛み砕くとかしないよ。そもそも噛み砕く必要を認めてないw
  • 記録