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2019_08
21
(Wed)19:56

心身症て。

――身体症状の発生、増悪、機序が身体疾患のそれでなく社会心理的過負荷に連関するもの。

僕なりの解釈としての心身症を定義すると上述のようになる。
先に言っておこう、僕は認めない。

ちげーから。

この夏、紹介状を貰っては大きな病院に出向いてCTやらレントゲンやら検査を受けた。
健康診断の類を絶賛サボり早幾年のくせに、検査は行くんかーいとセルフツッコミしては検査結果にも突っ込む。
健康診断サボってても、身体にこれと言った異常がほぼ無いってすごくね?
ぶっちゃけコレステロール以外の問題点は出て来なかったことにマジで驚き。

――じゃあ俺が日々抱えているポンコツボディの軋みは何なんだ
これだけ検査しても何も出て来ない以上、考えられるのは俺が嘘ついてるとかそういう展開だけど、
とは言え詐病でないのなら、結論としては一生放置しかない。

そこで冒頭の心身症に言及する訳だけど、個人的にマジで認めない。
失感情も失体感も両方取り揃えてるからそこは否定しないけど、
身体症状はあっても身体疾患との連関が無いことは、身体そのものに問題が無いことの証明にはなるけれど、
心への過剰な負荷が身体症状につながることの証明にはならない。
そもそも、誰がどうやって証明するんだ?
医師や心理関係の専門家はそりゃ多数いるだろう、でも彼らとて「断じる」ことは出来ない。
僕自身もそうであるように。

診断が出るか否かの話はさて置き、心身症の発露だと判明したからと言って何になる?
生活環境は文字通り死ぬまで現状のままだろうし、一時的な避難や環境変化がどれほど無意味か知り尽くしている。
生きる限り「こう」なのは既知の事実以上のモノではないのだから、症状緩和につながる方策など着手する価値もない。

対処する価値がない。と言うことは、何かしら疾病であると診断する意味もない。
何故ならば、社会心理的過負荷の関わりを僕が認めないからだ。
そんなん言い出したら「ストレス」ってどれだけ安売りされてんだよと思ってしまう。
全ての病気はそこに通じちゃうだろ。
仮にその手の負荷が自分に圧し掛かっているとしても、僕はそんなもので折れるほど脆くない。
生まれた時に人生は終わった。そこから先、世界から疎まれ他者からサンドバッグみたく扱われてきた。
ずっと続いていたことだ。それが死ぬまで続くだけだ。
本当に脆ければとっくにこの世から消えてるはずで(本来ならそれが望みだった)
不本意極まりないけれどまだ無駄に時間を食い潰して惰性で生きている。

だから早く来て欲しいのだ。心身症とやらがガチで僕を違う世界に飛ばしてくれると期待して。
脆くない僕を、さっさと本気でぶっ壊しに来い。
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2019_08
14
(Wed)18:53

ひとりでやっていく

やはり正々堂々と戦う人たちには近づけないのだ。
程度の差こそあれ、優等生にはなれないし、真似なんて更に無理だ。
野良ロボですから(ドヤ

揺らぎと逡巡を自覚したものの、結論は「ひとり」に落ち着いた。
世の理不尽と真っ向から抗う人々を目の当たりにして、自分自身の姿をどこかでカッコ悪いと思いもしたが、よく考えずとも「カッコ悪い」とは他人から見た場合の話でしかなく、そもそもそんなジャッジをする他人とは誰なんだとツッコミ満載である。

俺の周辺に他人なんていねえ。

今までの人生を振り返ってみると、他人と関わりを持つこと、繋がろうとすることに関しては一度もできた試しがない。
これ以上の努力ははっきり言って時間の無駄だ。
まだ社会にいたころ、他人に近づこうとするときにいつも頭にあったのは
「今度こそ失敗しないように、うまくいくように頑張ろう」だった。
努力の内容や結果についてはさて置き、その背後には常に切実な願いがあった。

他人と関わりを作れる人間になりたい
他人にとって”居てもいい”人間になりたい

――半世紀近く費やしても、その願いは叶えることができなかった。
まして他人が叶えてくれる類の願いでもなかった。
まさに愚かな願いというものだった。
ロボットが血肉を備えた温かな肉体を欲するようなもので、”今、生きている自分”である限り実現不可能だ。

他人の承認を得られない存在だと判ってしまえば、もう他人に対して何らか望むことも期待することもしない。
社会的にはこの状態を「自己肯定感が欠如している」と解釈するのだろう。
しかし僕にとって自己肯定感や承認欲求は本当に必要なのだろうか?
上で挙げたふたつとも、社会参加や他人との関わりを求める人間にこそ必要なものだろう。
どちらも他人からしか得られないものだから。
そう考えると、僕にとっては絶対必要とは言えない。

他人からの承認やら許可やら無くとも、何なら僕自身が僕を持てあまそうとも忌み嫌おうとも、
それでも僕は存在している。
だから他人にとって意味のある人間になんか、ならなくていい。
人間でなくってもいい。日本の人口の「1」でも風景でも空気でも、何でもいい。
他人の目には何かのモノとしていっとき映るかも知れないが、僕という個人が他人に認識される必要はない。
もはや認識の外にいる者としては、他人に提示する「自分の取扱説明書」を作ることはないだろう。

僕は、やっぱり自分の正体を知りたいのだ。僕にとっての僕が何なのか。
そういう意味での「自分の仕様書」くらいは作ってみようかとも思っている。
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2019_08
10
(Sat)21:41

ひとりで戦う方法、模索

7月の桜木町からこっち、恐ろしく厄介な逡巡に纏わりつかれている。
知らねえよと跳ね除けるだけの思い切りを持てない自分に、何やってんだと舌打ちしている。
その一方で、他者と関わりを持つこと即ちトラブル発生のゴングであることも解り切っているから、
逡巡が勢いを増していく。

「でも、やるんだよ」

明確な言葉を眼前にしながら次に進めずにいる己の姿を、どこかで『カッコ悪い』と感じてしまう。
従来の主張として、理不尽に敢然と立ち向かう人々を「真っ当」「正統派の戦い」と評してきた。
皮肉ではない。
現代社会において集団を(その目的の為に)作って法制度や組織、慣習や精神風土を相手に変化を齎そうというのだから、
尋常ならざる手間のかかった戦法だ。
あらゆる集団の内側で発生する争いは、利害の綻びや些細な不和で容易く頓挫するか自然消滅するものが多い。
それだけ難しいのだ。集団の在り方を一枚岩に保つということは。
まあ、人類古来のオーソドックスな戦法でもあるのだけど。

個人的には、「集団を作って戦う」というやり方はもう卒業したらいいのにと思っている。
現代社会は、文字通り全ての人間が異なる利害やバックグラウンドやステータスを抱えていて、
しかも何かの為に己の持ち物を譲ることを避けたくて仕方ない人々で満ちている。
他者への配慮や気遣いを損失だと考えているし、全てを自力で賄うことを「自立」だと信じている。
助けたくないし、言ってしまえば助けられたくもないのだ。
他者を助けることは損失で、他者に手を伸べられることは屈辱なのだ。
とりわけ後者は問題で、一体誰にとっての屈辱なのかという言わば「視点と評価」の問題でもあるのだが、
そこに対して自覚的に見ているかどうかは分からない。

ともあれ現代は集団で戦おうとするにはあまりに向かない時代なんじゃなかろうか。
例えば政党政治なんて最早典型的なまでに、集団だの協力体制だのを語ろうとするそばからボロが溢れていく。
個々の政治家もまた背後に異なる利害や支持者たちの様々な要望を背負っている以上、その全てを叶えることの困難を知悉しているだろう。
そもそもひとつに纏めることなど不可能なものを、少数の/小さな言葉や要望をその手から零しながら無理に纏めてきた
――纏まれない時代の到来は、無理な同質化への牽引に対する抗いでもあろう。

僕は纏まらなくていいと決めている。
自分自身がそもそも他者と利害を共にし得ない存在で、誰かと繋がれる生き物でもないから、それ以外の結論なんか無い。
就職氷河期世代だの、中高年ひきこもりだの、あらゆる類の困窮に対してまず提唱されるのが「繋がる支援」と言うヤツだ。
地域社会、自治体の支援機関、その他とにかく声高に「他者と繋がる勇気」を要求するけれど、
その勇気は必要なのかと疑問を感じる。
繋がって協力し合って纏まって頑張ろう、という論法は最早過去のメソッドだ。
何故なら現代は前述のとおり、他者を助けるのは面倒で他者に助けられるのは屈辱な人々が、とても小さな自分だけの場所で生きている世界だからだ。
勿論、生活で必要な諸々の物資まで全て自給している訳ではないが、何かを購入する際にエンカウントするスーパーの店員や生産従事者とは別に繋がってはいないという認識だ。
誰かが作っている、誰かが売っているという知識はあるが、認識としてはとても希薄なのだ。
そういう意味では、現代人の認識する「世界」はとても小さい。
一人だけが住む星みたいに、面積はあっても他者との距離は果てしない。

――まだ集団で戦おうって考えてる?
これから先必要なのは、誰かと関わる勇気よりも、ひとりで戦う覚悟だ。
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2019_07
27
(Sat)22:31

ここは桜木町

桜木町がめっちゃ変貌しててだいぶ動揺し、挙句昼ご飯も補給できずという為体。

こういう集会とか、気が進まないなーと思いながら(なら何故東京から行ったんだと
参加してきた。

第4回「ともに生きる社会」を考える集会2019

主催はDPIではなく県内の実行委員会で、やまゆり園事件との関連からか、
全体的な内容としては知的障害/脳性麻痺の当事者や家族の問題に寄っていたかなという印象。
報道機関のカメラも入って(まさかバリバ●で抜粋されたりするのか?)キャパ300の会場ってのもすげえ。
4時間前後のトークや講演を、僕は、

とても興味深く拝聴した。

正直この手の集会ってただひたすら「聞かされる」だけで、ステージ上の論者と全くすれ違い続ける感が満載なんだけど、
あの、マジで面白かった。
本で得る情報、授業や講義で知るような勉強、そのどれでもない。
忌憚なく、自らの苦みを吐くように告発とも悔恨とも取れる言葉が会場に流れて、僕らは空気とともに吸い込む。

誰かに対して遠慮があっただろう。そこに触れる怖さもあっただろう。
禁忌に等しい領域に、それでも踏み込まないと、僕らは3年前の夏から進めない。
傷つけるのは嫌だ。傷つけるかも知れないことも嫌だ。
でもそれらを嫌だと避けてしまうのは、誰かを傷つけることによって咎められるのが嫌なだけだ。
「悪者」を背負えずに傷つくのが嫌なだけだ。

考え続けることは無論大事だ。でももう3年経った。考え続けることは大前提で、ここから先をどう動くのか。
敵は巨大で悪辣で、何なら鈍重で排他的だ。
この上もなく面倒くさい相手だけど、どれだけ時間を要するかも全く判らないけど、
――でも、やるんだよ。
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2019_07
24
(Wed)20:23

選挙SHOW

先日の参院選。僕の感想。
近年稀にみる面白さだった。

成人して以来、投票しなかったことは一度もない。白票もない。
どれだけ選択肢がないと迷っても、自分で投票の先を決めてきた。
そもそも選挙とは、「いい人を選ぶ」よりも「マシな人を選ぶ」制度だ。
投票する人間全てにとっていい人など居ないのだから、そんな理想の勇者ゲットみたいな考えは安直でしかない。
投票する人間がそれぞれの考えで、自分にとって少しでもマシな人を選ぶのがベターの中の最善であろう。

参院選当日は各地で雨に見舞われ、投票を鈍らせた一因にもなっただろう。
無論それだけでなく、選挙に関心が向かない理由があちこちに積みあがっていた。
それでも、今回の結果にはさすがに動揺した。
――世界が変わろうとしているのか、それとも。

まだ手放しで全てを喜べないのは当然のことだ。
でも現実、眼前で、とんでもなく果敢に(そして周到に地道に)戦いをぶっこんで来た者たち。
勝敗の行方がどうこうじゃなく、確実に「選挙ショー」を捩じ込んだことに僕は驚いた。
日本の選挙でそんなことが出来るなんて想像もしてなかったから。

常々、面倒事や煩雑な問題を先送りにしては巨大なツケを蓄積して恥じない連中を、
心の底から軽蔑してきた。
時間をかけて取り組みましょうとか、センシティブだからとか、言い訳にもならない言説で
切実な苦痛の訴えを退け続ける社会や人間を見限って、背を向けた。
世界なんかさっさと終わってしまえと願いながら。

目の前にふさがる山積みの諸問題。面倒だし、絶対時間かかるし、先の展望も不明瞭だ。
――でも、やるんだよ

僕がかつて教わった言葉、その意味を強烈に思い出させられた。
そうだった、淺越さんが仰っていた。「でも、やるんだよ」
まだ動揺も大きいし、逡巡も当然ある。何よりも、自分に役目なんてある気がしないのだ。
世界に絶縁状を放った立場からすれば、もうやることなんかねーよ、あとは命放棄だけだろと決め込んできただけに。
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