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2019_01
14
(Mon)01:33

不在という自由

自由になるというのは、ひとりになるということだ。
実際に他者を遠ざけるのかどうかは置いて、
己のあらゆる価値観や判断に、他者が全く介在しないことだ。

気遣い、忖度、思いやり、配慮、尊重…
そういった、他者の存在を意識した発想やその方法論を全て己の裡から消し去ること。
煩わしいそれらから、自分を解き放つこと。
「他人のことを考える」という、言わば自分を押し殺す倫理を棄てること。

他者を棄てる。社会を棄てる。
つまり承認と所属の義務を放棄する。
この時点で実は、そこそこの自由を手にしていると言える気がするのだ。
だって、

せいせいしてるから。

何十年も抱えさせられてきたクソ重苦しい荷物を思い切り放り出したんだから、
そりゃ、せいせいするだろうよ。
自分で言うのもなんだけど、排除された側なのに全く悲嘆も無く寂しいとも思わずなので、
(とうの昔にだけど)人間性を棄てたことをいよいよ剥き出しにしてるなあと言わざるを得ない。

ひとを棄て、場を棄てた。
自由まであと少しだ。

進撃の巨人でいちばん思い入れあるキャラがエレンであることからも、
己の人でなしぶりが窺えると感じるこの頃。
てか、エレンがエゴイストだと全く思わない。あの子は自由を求めてるだけだ。
連載当初からその辺は一貫している。
あいつの倫理ヤバいとかエゴイストとか、ままある意見だけど、
それは他人とつながりを持つこと前提の価値観だからそう思えるだけだ。
自由とは、あらゆる他者からさえも「解き放たれる」ものだ。
無論、上述の考えが即ちエレンの価値観ズバリではないけれど、
彼の望む自由にそこそこ近いんじゃないかと思っている。

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2019_01
02
(Wed)21:19

言葉を武器に

12月に1度も記事を上げないまま、2019を迎えた
年月の単純な積み重ねに価値など無いのに。
盤面ごと世界を覆す勢いで、ほかの世界が侵略してくりゃいいのにな。
それに乗じてこの世界から出ていきたい。

世界を見限って、他者に何も望まず、自由を得るまでひとりで走る、
この身体が一刻も早く消えてなくなるように。
生きる努力なんてゴミ箱に棄ててしまえ。

生まれた時には人生が終わってた。
家庭も学校も社会も、どこに居ても異端視のち侮蔑か暴力的支配の渦中に放り込まれ、
排除や追放の対象になる以外なかった。
生きてきたというよりは「死ななかった」だけで、
他人にとって僕は「好き勝手殴れるサンドバッグ」という認識だった。
身体的意味でも、精神的意味でも、そして存在自体も。

残念ながら僕の精神は常軌を逸した強靭さで構成されている
何らか謗りの言葉をぶつけられたところで悲しみも無く、落ち込むことも無い。
全ての感情の表出は怒りになる。怒りこそが僕をずっと走らせてきたエネルギーであった。
誰とも共有し得ぬ、もちろん共有する気など無い、僕だけの怒りだから。

全ての他者を振り切って走ること、怒りを糧として。
そのエネルギーが尽きるまで、とにかく早く、他者に気遣って速度を落とすなどせずに。
全部燃やして、身軽になって、向こう側へと壁を越えた時に、
僕の望むものが手に入る。
自由と尊厳が。
望むものを手に入れるのに、命を惜しむ理由なんか無い。

命<<<<<<<<<<<<<<<<<<<自由と尊厳

…誰にとっても「命がいちばん大事」とは限らんよ。
2018_09
24
(Mon)20:17

言葉の飛距離を伸ばす

こんばんは、まだまだ神様(的存在)からの召還が届かない僕です

2018年7月26日、相模原市やまゆり園での事件から2年経過。
どれだけショッキングなセンセーショナルな内容の報道でも、2年待たずに忘却の彼方
―流行に弱く、古くもないのに忘れ去るのが得意技の、この国ではありふれた話。

特に人々に知らしめたい、などとは思うことなく送ったメールが
とある雑誌に掲載の運びとなって、僕はびっくりした

ちょっと前に発売されたから、書店では書棚からなくなっているだろうけど
ブログURLをふんわりと載せる(僕の文章自体は誌上のみ)

月刊「創」10月号ブログ

どれが僕の書いた文章かは、まあすげー分かりやすいので…笑
投書のひとつとして載せて頂いてるのだが、まさか全文・修正一切なしでゴッツリ来るとは
僕は…びっくりした(2回目)

ああいうものは、出版の常として見栄えよく直しが入れられるもんだと思っていたのだ。
メディア=盛るか削るか厚化粧は必須
つまりはそれほど強くメディアに対して不信と侮蔑があったし、
それがさほど間違いでもない事例ばかり見てきた。

…悪口雑言は置いて、何の間違いか掲載して頂いたことには変わりがなく、
僕の言葉が、思うよりは飛距離を伸ばせたことだし、
言わば補助輪をつけて貰ったようなものだ
そのことに、感謝を。
遺言なんて大げさだけど、公の場所に残す言葉としてはまあまあではないかな。

2018_05
26
(Sat)22:08

望まないものを押しつける商売

5月の初記事がコレと気づいてびっくり
連休明けからずっと風邪が続いてて、たかが風邪をここまで引きずる自分にびっくり

確実に体力減衰が加速している。

先日の診察で、久しく近づかずに居た「カウンセリング」をやってみることにした。

医師とは別に、カウンセラーによる問題の洗い出しと整理整頓を試みようという次第
ここ数か月、診察だけではどうにも行き詰まっている感じがもやもやしてて、
僕は、自分自身ではできない大量の情報整理をする必要を自覚した。

若いころ、幾人かのカウンセラーと対話療法をしていたが、
どの人とも上手くいかなかった。
彼女らの得意とする(のか?)『傾聴かつ共感』と『一定間隔で繰り出される謎の相槌』
上記2つにどうしてもなじめなかったし、説明不能な気持ち悪さしか伝わってこなかった。

何より嫌悪をもよおしたのが「女性ならではの細やかな心使い」を全力でゴリ押ししてくるところ。

オンナのそーゆーとこ推す態度が、宇宙級に嫌いだ。
湿度高すぎ&距離近すぎ、オンナ香水臭でメンタルが腐れていく
同性だからって無遠慮に手を握ってきたりするの、マジ穢れる心持

これらの経験を経て、僕はカウンセラーという職業に果てしもなく疑念を抱くようになった。
まさに「望まないものをさも有難げに押しつける商売」だと、自分のなかで結論づけた。

…今になって突如、宗旨替えかと。
自分でも他に方法とかないんかい、と突っ込んではみたものの
言わば医師―患者のなかに第三者を介入させるとするなら、
…まあ、まー、??カウンセラーか…??

選択肢も見つけられず、先日第1回目の面談終了
1回で有り無しを決めてしまうのはいささか急ぎすぎだとは思うが、
現時点で、感想としては「曇り」感である。
2018_04
29
(Sun)00:50

妥結は賢明だが

ネット上には多数のブログがあって、発達障害の当事者によるものも多い
20世紀末に散見された所謂「闘病記」的な、
言ってしまえば日記の体裁をとるものは減った
ぐっと増えているのは、日記を超越した「自分の経験から生まれた生活術のまとめ記事」

Webライターとして精力的に啓発・ライフハック等の具体的な情報を発信し、
SNSやツイッター等では他の当事者と情報交換したり、同業の士としてリアルな交流を
展開していたりもする。
同じ発達勢なのに、あの行動力や積極性は真似できる気がしない。

彼らの書く記事は有用だし、文章構成も分かりやすく、つまり読みやすい
何よりも、彼らの綴る文章からは、明確に「この社会で生きていく」意志が伝わってくる。
決定的な差異はそこだ。

窮屈でめんどくさく、己の特性を理解されないしんどさや余計な手間だらけのこの社会で、
彼らは「でも、生きていく」と決めているのだ。
翻って僕は、
「この社会は生きる価値が無い」と結論が出ている。
じゃあ何で生きてるのか、と問われれば
「自分で死ぬのももはや面倒」だからだ。

過去に×回くらい(もう回数も忘れた)試した当事者としては、
「自分で死ぬのは意外と大変」と身に染みて知っている。
回数が増えるほど、当然ながら大変さのハードルも上がる。

あと、ヤッカミと思われるのを覚悟で言うが、
ブロガー発達勢の皆さんは、総じて
「物分かりがいい」
「何だかんだ言っても、社会に適応できている」
「社会や健常者と妥結の道を探す努力を惜しまない」

つまり、折り合えるんだよな。
自分たちの特性や困りごとを理解しない、配慮しない、隙あらば排斥しようとする社会と。
妥結は確かに、生きる上では賢明かつ現実的な手法だけど、
僕はそういうのを見るたびに内心
(そんなに健常者と折り合えるくらい、物分かりがいいと言うのもなー)
(いま生きるための妥結は確かに賢明だけど、結果的に根本的解決を遠ざける気がする)
と忸怩たるものがある。