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2018_03
21
(Wed)16:51

相互拒絶

厭世、という表現がしっくりなじむこの頃

僕は世を厭い、世は僕を厭う
利害のこの上ない合致。

世界の誰も、世界のどこも、僕を望まない。
僕もこの世界に居たくない、誰とも関わろうとは望まない。
ここに僕がパズルピースとして嵌まり込める場所はない。
はじかれ続けて、追い出され続けた結果が現状だ。

僕 という個体が持つ特性を、この世界は否定する。
わずかでも「僕」を滲ませたとたんに拒絶と非難が圧倒してくる。

(僕は望まれない者だ)という認識。自己肯定の徹底した欠如。
自己肯定し得る根拠など、何もない。全部、否定されてきたのだから。
『自分を肯定してはならない』と学習することだけが、存在を許される理由になった。

個 を殺して、消して。
その場その時置かれる立場や集団に、なじもうと努力した。
(自分を出さず、空気のように溶けていけば、集団になじめるんじゃないか)
過剰に同調して、いわば『誰にとってもどうでもいい人』になることで、
居ることを許される気がしていた。

誤算はここに生じる
『過剰同調しようとしたけど、実は全く同調できていなかった』
場の空気を誤読したのだろう。
さらには、自己を消そうとしたとしても、どこかが大幅にはみ出ていたのだろう。

自己否定の果てに得たものが、集団からの排除と他者からの非難だとしたら、
いったい自分は何のために己を圧殺してまでこの世界に居続けたんだろう。

自己肯定の欠如
自己否定の結果としての疎外

現在の僕は社会的には「居ない者」だ。
風景に等しい、ただ「数」としてだけそこにある。
日本の人口の、頭数として。
「数」に『個』は不要だ。モブ、エキストラ、それ以下。

【個】と【特別】はイコールじゃない。
何も特別な存在じゃなくっていい、特段優れた何かを欲したわけじゃない。

僕が僕でいることだけ欲したのに。
世界が拒絶する「僕」のために、僕は世界から退場したい。
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  • 記録
2018_03
01
(Thu)01:58

いちゃもんの心理

昨日だいぶずたぼろ雑巾状態で医者に行ったので
その件でちょっと書きたいことはあるけれど、

それ以上に聞き捨てならん(見捨てならん?)ことがあったので
当事者ではないからこその無責任さと
(客観的か否かは別にして)冷静さをもって
僕の所感を記する。

舞台でも小説でも映画でもドラマでも
「見ていない作品」を語る時の人は、
絶対冷静でも客観的でもないし、
己の正義に酔いすぎて、真っ当に語る口を最初から喪失している。

誰のどんな作品かは書かないが(それは本件に無関係だから)
観ていない作品のタイトルがけしからん、と
正しい歴史認識が伝わらない、と
原作者に噛み付いた御仁がいる

観てないのにけしからんもクソもあるか
…というごく基本の前提は、この手の御仁には通じないので置いておく

タイトルに絡む一連の歴史的事象を嘲笑する作劇では無い。
コメディという土台に乗せて、歴史的事象の流れを共有する、
その上で「笑いを産むエンターテイメント」を構築する。

過去の一連は、確かに忌むべき悲劇で、正しいなんて間違っても思うことはない
でも、悲劇から出発するものが『喜劇』であるように作ることで、
「悲劇という事実」と「喜劇という眼前の体験」を作り手と客が分かち合う。
それは祝祭だろうと、思う

タイトルがけしからんから変更しろ、上演中止にしろ、と迫るのは
自分が気に入らないものは他人も気に入らないに決まってる、これは正義だ
だから排除しても構わない

という、他者の思想を否定しようとする暴力の再生産に過ぎない。
それは、かの国が特定の民族を排除しようと企てた、
「」の現代版とも言えるのではないか。

とにかくも、観てない作品にいちゃもんつけた挙句に
原作者(恐らく面識なさそう)に向かってタメ口でキーキー噛み付いている姿は、
誰にとっても滑稽の極みだっただろう。
  • 演劇