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2019_01
27
(Sun)19:49

片手落ち

相対する物事や意見がある。AとBみたく。
Aを支持する、Bを支持する、どちらを選ぶも各人の勝手。
誰にもAを支持する自由があるのと同様に、Bを支持する自由もある。
そしてAを批判する自由があるように、Bを批判する自由がある。

所謂「Aを好きという自由があるなら、Aを嫌いという自由がある」というヤツだ。

でもそれは、好きと言う前にも/嫌いと言う前にも、
「自分と反対の主張をする者を貶めない、否定しない」
「好き/嫌いは、あくまでその物事や現象について語るものであり、反対意見者に対する誹謗の材料にしてはならない」
という前提を踏まえてこそ有効たり得る「自由」だ。
自由とは、いつでも自分と考えを異にする者のための自由だ。
――ローザ・ルクセンブルクが言っているように。

Aを好きでも嫌いでも勝手だ。Bも同様に。
自分がAを好きだからと言って、Bを好きな者・Aを嫌いな者に向かって
「Aを好きじゃないなんておかしい、Bが好きとかあり得ない」と謗るのは、
もう意見の主張なんかじゃなくて単なる誹謗だ。
それ以前に、好き嫌いの話でさえなくなってる。
好き嫌いはAやBに対して抱く意見であって、各々意見を述べる者への攻撃材料ではない。

また、好きと言うのは良くて、嫌いと言うのはダメと封じるのも理不尽だ。
AやBを嫌いというのが事実だとしても、それ即ちAやBを好きな者をも不快だとする主張には直結しない。
別の表現をするなら、AやBを嫌いだと主張するのなら
「AやBを好きな者が嫌いだという主張ではなく、またそれらを好きな者に攻撃する意図はない」
ことを前提にするべきだ。

相対するものがあるとどうしてもどちらかを選び、選ばなかった片方にも思うところが生じるけれど、
ならば片手落ちにならないようにしないと、一方的に言葉をぶつけるだけの争いになる。
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  • 記録
2019_01
27
(Sun)00:12

矛盾と葛藤を抱える

25日から恵比寿・エコー劇場で上演中の『わが家の最終的解決』再演。
1年経つんだなあ。
アガリスクの本公演を、もう2作観ていない。
コントレックスに至ってはいつから観てないのか分からない。
ネットでうっかり評判を見てしまい(どうせいつかは見つけてしまうけど)
わが家の…!!!!!主演がコータさんとか…!!!
その他全ての情報が、僕に劇場へ行けと言わんばかりだ。

行けないけど。行かないんだけど。
…本当に往生際悪すぎるし、未練が酷いよ、我ながら。
でも前言撤回できるわけもない。
自分がもう劇場や観劇という環境や状況に耐えられない以上、
観たいという願望だけで無理を押すのはただの迷惑行為だ。

上記ふたつの理由の背景には、
「二度と他人にかかわらない、接しない、僕は誰にとっても居ないんだから」
という鉄の掟がある。
物理的に視界に入らなければ、ギリギリセーフかな。
蟄居スタイルが日常として根付いてきた現状、
他人にかかわりを持つことは本気でタブーだから。

チケット代を出さない以上、いわゆる「客」の定義からは外れる。
物販や通販で台本などを購入することがあったとしても、
それらはそもそも劇場で公演を打つ、興行として成功を収めるという前提があるから
生じる団体の収入源だろう。
一時期「差し入れ持ってくるより新規の客連れて劇場に来い」という趣旨のツイートを見て、
正論だけどどうよソレは、ともやもやしていた。
この頃はもやもやしない。
「客」でなければならぬ、というルールから離脱すれば問題ないのだ。

金銭面で貢献しなきゃ、と思うから罪悪感に苛まれる。
自分ひとりのチケット代なんか、誰かががっつりカバーしてる。
ファン層だって不動じゃない。世代・客層の交代や入れ替えは当然ある。
「自分ひとりが観なくても大して変わんないでしょ、興行として」ではなくて、
「自分が観に行くのは迷惑行為だ」という確信がある。

…大丈夫だ、一過性の痛みだと思ってやり過ごせ
他人に近づく、それだけのことでも、ルール違反だ。

  • 演劇
2019_01
14
(Mon)01:33

不在という自由

自由になるというのは、ひとりになるということだ。
実際に他者を遠ざけるのかどうかは置いて、
己のあらゆる価値観や判断に、他者が全く介在しないことだ。

気遣い、忖度、思いやり、配慮、尊重…
そういった、他者の存在を意識した発想やその方法論を全て己の裡から消し去ること。
煩わしいそれらから、自分を解き放つこと。
「他人のことを考える」という、言わば自分を押し殺す倫理を棄てること。

他者を棄てる。社会を棄てる。
つまり承認と所属の義務を放棄する。
この時点で実は、そこそこの自由を手にしていると言える気がするのだ。
だって、

せいせいしてるから。

何十年も抱えさせられてきたクソ重苦しい荷物を思い切り放り出したんだから、
そりゃ、せいせいするだろうよ。
自分で言うのもなんだけど、排除された側なのに全く悲嘆も無く寂しいとも思わずなので、
(とうの昔にだけど)人間性を棄てたことをいよいよ剥き出しにしてるなあと言わざるを得ない。

ひとを棄て、場を棄てた。
自由まであと少しだ。

進撃の巨人でいちばん思い入れあるキャラがエレンであることからも、
己の人でなしぶりが窺えると感じるこの頃。
てか、エレンがエゴイストだと全く思わない。あの子は自由を求めてるだけだ。
連載当初からその辺は一貫している。
あいつの倫理ヤバいとかエゴイストとか、ままある意見だけど、
それは他人とつながりを持つこと前提の価値観だからそう思えるだけだ。
自由とは、あらゆる他者からさえも「解き放たれる」ものだ。
無論、上述の考えが即ちエレンの価値観ズバリではないけれど、
彼の望む自由にそこそこ近いんじゃないかと思っている。

2019_01
03
(Thu)22:40

敵は

僕のような生き物を「マージナル」という言葉で表すことがあるらしい。
固有名詞ではなく、在り方として。

確かにあらゆる場所(主に社会や集団)から排斥されて、
個人的に且つ自発的に社会からログアウトした立場としては、
全てのものから距離を置き、周辺をふらふらと巡っている状態を
マージナルと呼ぶのもまるで的外れではない。

僕は身体だけが生きている。そういう存在として世界に認識される。
例えば日本の、東京の人口に数字「1」という形で。
けれど、誰の目にも映らない。誰の記憶にも居ない。
社会の、またあらゆる種類の集団にも所属していない。
だから世界にとって僕は「居ない者」だ。
世界のどんな眼にも、僕は認識されない。

そう、ここに矛盾がある
身体は存在している、けれど社会に認識されることはない。
誰にとっても居ない者であるはずなのに、姿だけが誰かの眼前に現れることは在り得る。
要するに、他者の目に映った僕は言わば亡霊のようなものだ。
居るはずがない者は、当然咎められ、その場を去るよう追い立てられる。
だから僕は周辺を彷徨うことしかできない。足を止めてはならない。
望むものを見つけるためには、休むことなく移動し続ける。
迂闊に場所や集団に近づいたり、ましてや内側に踏み込むことなどしてはならない。
内外の境界線を越えた途端、追われる立場だ。

油断するな、世界は敵だ。
僕の望むものは内側には無い。世界の外に在る。
  • 記録
2019_01
02
(Wed)21:19

言葉を武器に

12月に1度も記事を上げないまま、2019を迎えた
年月の単純な積み重ねに価値など無いのに。
盤面ごと世界を覆す勢いで、ほかの世界が侵略してくりゃいいのにな。
それに乗じてこの世界から出ていきたい。

世界を見限って、他者に何も望まず、自由を得るまでひとりで走る、
この身体が一刻も早く消えてなくなるように。
生きる努力なんてゴミ箱に棄ててしまえ。

生まれた時には人生が終わってた。
家庭も学校も社会も、どこに居ても異端視のち侮蔑か暴力的支配の渦中に放り込まれ、
排除や追放の対象になる以外なかった。
生きてきたというよりは「死ななかった」だけで、
他人にとって僕は「好き勝手殴れるサンドバッグ」という認識だった。
身体的意味でも、精神的意味でも、そして存在自体も。

残念ながら僕の精神は常軌を逸した強靭さで構成されている
何らか謗りの言葉をぶつけられたところで悲しみも無く、落ち込むことも無い。
全ての感情の表出は怒りになる。怒りこそが僕をずっと走らせてきたエネルギーであった。
誰とも共有し得ぬ、もちろん共有する気など無い、僕だけの怒りだから。

全ての他者を振り切って走ること、怒りを糧として。
そのエネルギーが尽きるまで、とにかく早く、他者に気遣って速度を落とすなどせずに。
全部燃やして、身軽になって、向こう側へと壁を越えた時に、
僕の望むものが手に入る。
自由と尊厳が。
望むものを手に入れるのに、命を惜しむ理由なんか無い。

命<<<<<<<<<<<<<<<<<<<自由と尊厳

…誰にとっても「命がいちばん大事」とは限らんよ。