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2019_04
26
(Fri)22:21

終われ、世界

3年前の夏に起きた相模原の事件を、誰か覚えているだろうか。
覚えているだけマシで、もはや当時の報道のざわめきを思い起こすことなど無いだろう。
もうやまゆり園は解体工事を終えた。
そしてニュースで発表されたように、植松氏の公判が来年1月に開始される旨の告示がなされた。
あくまで予想ではあるが、早期判決、恐らくは死刑だろう。

昨年秋、オウム関連で立て続けに死刑執行がなされたことを思えば、
早く片を付けてしまいたいのが本音だろう。
そして植松氏もその例外ではないだろう。
なにひとつ解明されぬまま、恐怖と復讐と見せしめの対象として、彼は極刑となるだろう。
僕は彼がなにひとつ解き明かされてもいない状況で、死に向かわされることを恐れている。

建前であっても「言論・思想・表現の自由」を全ての国民に認めているはずのこの国で、
彼が為した行動(殺人)ではなくて彼の思想が裁かれる。
その結果が彼の死として示されてしまったら、もう建前は建前ですらない。
発した言葉ひとつがキッカケとなって、誰かの主観で一方的に裁かれてしまう事態を、
どうして黙殺できるというんだ?
もうこの世界は、本当に破滅への一本道を爆走し続けていて、速度は上がっていくだけだ。

唯一無二の絶対的正解や、普遍の正義など存在しないから、人間は考えていける。
思考を繰り返し、最後まで己の信じる「正しさ」への疑いを棄てず――それが「人が生きる」ということだろう。
そうした「生きる」の末に、自身の人生をいかに幕引きするかが像となって見えてくる。
納得いくまで「生きる」ことが、納得して「死ぬ」ことができる構造を強くする。

死に係る全ては自分で選ぶ。幕引きを決めるのは、他人じゃない。
それを決められない状態(認知症等で意思を伝えられない、身体行動に不自由を抱える等)になる前に。
――そして、自死の権利を剥奪されるような状況が生じる前に。
世界が終わるか、僕が壁を越えていくか。


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  • 記録
2019_04
23
(Tue)13:23

平等に容赦せず

「できない1%の人」を捨てる組織が弱いワケ

上記の記事、ビジネス的視点から語られるものではあるが、人間の幻想の一端に言及する部分が少々気に入ったので掲示。

僕が他人に疎まれる理由のひとつに、幻想の無さに起因する「誰にも平等に容赦しない」がある。
人は、自分と近しい者(家族、友人等)を優先順位の上位に置くものだ。
例えば自分の子が何らかの理由で他人から咎められると、保護者として庇うだろう。
友人と知らない他人を天秤にかけるとしたら、友人のほうを当然のように選ぶだろう。
――たとえ相手が、犯罪の加害者として糾弾されているとしても、心のどこかで(そんなバカな)と否定したくなるだろう。

人間が優先できる/尊重できる他者の数には、限りがある。
だからこそ、所謂「身内」を優先して救おうと力を尽くす。

僕は、この「身内」という概念が自分のなかに全く存在しないことを自覚している。
罪を犯した身内をかばう者の考えることが分からない。
世界の果てくらい遠い他者だろうが、親兄弟だろうが、自分以外は全て他人だ。
名前も顔も年齢も、性格も価値観も、どれだけ遺伝子を重ねていようとも。
「自分ではない」時点で、全ての者は他人になる。
身内だから、友人だから――それが何故罪をかばう理由になるのか分からない。
子供だから、年下だから、傷つきやすいから、地位のある者だから――それが何故、手を緩める理由になるのか分からない。

子供がいたずらをして叱る時、後輩が失敗をして狼狽えている時。
「子供なんだから許してあげて」「本人も反省してるんだから、あまりキツく言わないであげて」
それは一体どういう理屈なんだ?
口当たりのいい甘っちょろい上っ面だけの言葉で、適当に窘めて、それで本当にいいのか?
キツイって言うけどさ、それだけのダメージを被っている人間が居ることを骨身に刻むような言葉を得なければ、
結局どこかで同じようなミスを繰り返すことになる。

言葉は武器だ。
それは、投げかける相手にきちんと理解して貰うためなら、不要な情けを混入させてはならない「武器」だ。
本当に「身内」を大切に思うなら、その場しのぎの甘い情けでごまかしてはダメだ。
「許してあげて」なんていう庇い文句には、結局のところ、(キツイことを言って疎まれたくない、非難されたくない)という自己弁護が見え隠れする。
そんな言葉ひとつであなたを嫌う疎むヤツなんて、所詮はその程度だぜ。
嫌われていいよ、そんなヤツには。
だってあなたが危機に陥ったとき、ソイツは即座に逃げていくだろうよ。
そんなヤツを、どんな理由であれ、あなたが庇う価値は無い。
  • 記録
2019_04
19
(Fri)20:19

世界の外側

世界の外側にいても、日々のニュースを全く見ないで済むという訳にはいかない。
チラ見だけでも陰鬱な気分しか生まれない、そんなニュースまみれの世界は、誰にとって都合のいいものなんだろうか。
とは言え解っていることは、この世界に生きている者たちが個人から集団に至るまで
一瞬ごとに重ねた些細な選択が生んだ怪物が、僕らの頭上に圧し掛かり手足の枷として絡みつき、
思想までをも腐敗させたのだということ。

正直、ここまで想像力と思考力の欠落した家畜が「人間」面で社会を席捲する世界が勢いを増すことになるとは
想像できていなかった。
自分の想像力なんて狭いものだと苦くなる。
想像と思考とは、要はざっくり言えば「考える」に分類されるものだから、
これが欠け落ちると、考えない(自分の頭で考えた結果を言葉にして他者に表する行動が消える)。
自分自身の物差しも無いから、常に他者の物差しに振り回されるし、振り回されていることに自覚も無い。
流行りに次々と乗り換えるように価値観や意見、評価を他者からつまみ食いしては食い散らかして、流行りが過ぎれば臆面もなく「次まだ?早く」と要求する。
自分で何ひとつ考えず、生み出さない。
馬鹿の一つ覚えみたいに早く早くと「正答」をせびる、思想の盗人。

馬鹿だよなあいつら。
誰にも通用するような「正答」なんて、ある訳ねえのに。
過去現在未来、ずっとずっと通用するような、普遍的な正しさなんて存在しない。
仮に存在したとしても、それは到底人類の手に負えるような代物ではないし、手の届く場所にはない。
普遍的正義に依拠することが叶わないからこそ、人類には「考える」力が必要なのに、
気づくことなく馬鹿みたいに「答えはよ寄越せ」を繰り返す。

こういうことは、やっぱり世界の外側に居ればよく見える。
完全に外に出ていなくても、世界の渦中から遠ざかれば少しは見通せる。
――まあ、世界の渦中から少しでも身を動かす度胸があるのか、知らねえけど。
  • 記録
2019_04
12
(Fri)01:08

旅先で発見

先月末にひっそりと旅をしてきた。
1人旅はじつに2年ぶり、行先は長野・下諏訪。
かなり前にも来ているはずなのに、当時の記憶が全くない。

下諏訪での2日間、じっくりと街を歩きとおした。
勿論、真っ先に訪れたのはあの場所だった。
僕の中で、文献や史料に宿る存在だった人々が、眼前に生きた姿を想起させる程の現実に変わった。
維新150年、あれから何が変わったんだろうか。
そして、何が変わらず僕らの頭上に圧し掛かっているんだろうか。

歴史とは常に勝者によって語られる、ある種の「物語」としてパッケージングされたものだ。
勝者の栄光と劇的なストーリーの奔流に紛れて掻き消えるのは、いつだって名も残らぬ膨大な者たちのか細い言葉だ。
しかし、歴史が常に勝者によって語られるという事実は、勝者自身の正しさや倫理的な清潔さを保証するものではない。
勝者とは、その時代において風に乗った結果、後世からそのように名づけられただけの存在だ。
思想や主張の正否なんてものは誰にも判断できないし、歴史に名を残した者たちの為人や人徳も然りだ。
次の時代を迎えるためには、立ちふさがるバリケードを破る「力」と、バリケードを破ろうとする者を乗せる「風」が必要で、
それを手にした者が後世に名を伝えられる存在になる。

勝者ばかりが栄光と英雄の象徴として描かれる世界だとしても、
勝者よりはるかにたくさん存在している(いた)敗者の歴史的存在が不要だという論は乱暴が過ぎる。
「メインキャストじゃないのなら、いないのと同じ」と言っているようなものだから。

敗者とは、単に風に乗れなかった者、乗らない選択をした者だ。
その選択について、我々は間違っても「敗者は衆愚であり、間違った選択をした者」だとは断じ得ない。
誰もが生きるあいだ、ずっとずっと、事の大小にかかわらず何らかの選択を瞬間ごとに下しているのだから。
そこに正誤という物差しを当てたところで、意味はない。
歴史を語るにおいて確かにメインキャストとそうでないキャストは存在するが、
「メインキャストじゃないのなら、歴史の中には居なかったようなもの」では無い。

みんな主役、なんてうすら寒い世迷言はほざけない。
出身や所属、階級、年齢や性別、そういう各自の属性を取り外してから見えるものに、
僕はその人の歴史的存在を感じる。
薩長だけが維新の立役者じゃないし、彼ら無しで維新成り立たずなんて言う暴論には大いに異を唱える。

また機会を見つけて、下諏訪を訪ねよう。
その時は、彼らの墓前で伝えられる決意を抱えて行く。


  • 記録
2019_04
03
(Wed)20:46

ロングフルライフ

生まれてきたこと自体が損害である

障害を負って生まれたこと、望まれない者として生を享けたこと。
生まれてきたことが罪だと裁かれたこと。
罰として「望まれない者」の人生を強制的に負わされること。

僕にとって、まさに生まれてきたこと自体が損害だ。
ロングフルライフ――生まれてこないほうがよかった、と自ら断じる人生が、
地獄以外の何だと言うのだろう。

両親ときょうだいが居る。居た気がするが、彼らにとって僕は居ない存在だ。
僕にとっても同様に。
家を出るまで、僕は家族から毎日ぼろ雑巾みたいに扱われた。
育てづらい子供であることが、親の怒りや苛立ちを日々全身に食らう理由になった。
姉から見た僕は、甘やかされる我儘なガキでしかなく、長女ゆえの制約の報復を僕が引き受けさせられた。

家を出て20年近く経つ。
姉には社会人になったばかりの2人の娘が居るが、2人ともだいぶ歪な精神構造だ。
まあ、あの暴君(=姉)に支配された家庭で育てばさもありなんという感じだ。
家族のなかで起こってしまった「負の遺産の継承」が、僕の存在をまたしても「損害」だと糾弾して来る。
どう足掻いても逃げようもなく「ロングフルライフ」の自分。

僕は3年前に発達障害の診断を受けた。成人を2回迎えて、少しばかり過ぎたところで。
これが意味するところは何なのか。
両親は僕の障害について全く医療機関やその他相談機関に照会しなかった。
知ってか知らずか。
いずれにしろ言えることは、「何も手を打たなかった」ことだ。
何なら僕自身にすら、隠し通そうとしていた可能性がある。
彼らは僕を育てたとは言えない。「死なせなかった」だけだ。

姉は僕より2歳上で、生まれながらの暴君だった。
世の中全てに不満しかなくて、常に苛立ちや怒りで心を煮え返らせては感情を爆弾みたいに投下していた。
主な被弾者は僕で、姉が結婚して子供をもうけてからは、標的が変わっていった。
僕から子供たちへの標的変更は、けれど本質的には「立場の弱い者」と言う意味では変わらなかった。

先日、唐突に連絡が来た。姉の子供2人のうち1人が、発達障害の診断を貰ったとのことだ。
僕は(ですよねー)という静かな納得と、(同じ過ちを繰り返してるんじゃねえよ)と言うやるせなさにふらついた。
それまで全く伝えていなかった自分の障害について、親にメールで告げた。
「俺もASDとADHDだ」
親からのメールには、そのことに触れた文言は無かった。

ですよねー。親ってそういうモンですよねー。
孫が発達障害だと診断されて、それまでの姉夫婦一家との経緯こそあるにせよ、
僕の両親は、子供である僕らへの救済も償いも無視して、孫のフォローをすることで全てを帳消しにしようとしている。

――コレはアレだ、「生まれてきたことが間違い」だから「救済も償いも無くて当然」で、
望まれない者として生まれてきた僕の「自己責任」だという判断でよろしいか?