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2019_05
30
(Thu)20:49

自分しか居ない「コミュニティ」

"不適性な人"を密かに排除する社会の到来

うわぁ、えげつねーなあ
…というのが最初の感想。

でも言われてみれば、適性検査があるということは逆も当然あるってことだ。
適性があるかどうかを見定めるよりは、適性に欠ける箇所があるかどうかを探す方が楽だ。
「間違い探し」は、得意だろうから。
そしてこの「間違い探し」は、「違うこと=ダメなこと」という暗黙の了解に支配されている。

本記事の冒頭部では、婚活市場におけるえげつないまでの「優位な遺伝子の選別」に言及している。
精子バンクでも似たような「優位な遺伝子リクエスト」がある以上、婚活市場もまたその影響を逃れ得ないだろう。
意地悪なことを言えば、これらは全て優生思想の一端である。
無論、生き物として優れた遺伝子を持つ者をパートナーに求めることは自然なことだ。
その一方で、出生前診断で障害や疾病の可能性を理由にした中絶を非難するのはどういう訳だろう。
命を選んでいるのはお互い様じゃねえのか。
まるで、優れた遺伝子を引き当てられなかった者の「自己責任」とでも言いたげな、矛盾。

閑話休題。
就活における適性検査と、逆から人を篩にかける「不適性検査」の存在。
不適性とはまたすげえネーミングだと半笑いになりながら、人類最後にして最大のリスクが「人間関係」という状況に、更に嗤う。
ヘタに浅知恵が絡み合った結果、リスク回避の方法がひん曲がってきたとしか思えない。
リスクマネジメントの勉強、も少し頑張れよ。マジで。
時代の変化や要請、法整備が進むほどに、それを実際に運用することになる各コミュニティの内部で負担増を厭う力は強くなる。
「手間がかかるヤツは水際で排除しておけ」と言うヤツだ。
異者排除の手口が鎖国政策と大差ないあたり、この国は何も変わってないし変わる気もないんだろう。

例えば今春から有給休暇の取得義務化なんてニュースがネットをざわめかせたが、
企業側も浅知恵だけは回るもんだから、社員側にリスクを負わせる方法ばかり考える。
有給は義務化されるが、そもそも休んでいたら業務が回らなくなるような仕事量の労働者も多数いる。
だったら「有給取れなかったら社員の責任だからペナルティとして給与から日数分の賃金を引く」とか、いくらでもトラップを仕掛けようとするわけで。

リスクは回避したい、他人に配慮する必要がなるべく生じないように要配慮なヤツは門前ではじいておく。
こうしてコミュニティの内側に居る人間は、どんどんコミュニティ構成員の資格要件を厳格化するうちに、減っていく。

――最後に残るのは自分ひとりということに、僅かでも想像を巡らせているだろうか?
篩にかけ、誰かを選び、誰かを選ばないという行為の果てに待つものは、
自分ひとりのコミュニティという矛盾の象徴だ。
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  • 記録
2019_05
19
(Sun)22:54

望まぬ、望まれぬ長居

異国、或いは馴染みのない場所。
自ら望んでそこに滞在していても、いつかは感じるであろう「帰りたい」感情。
居心地がよくない、馴染んだ土地に早く戻りたい、ホームに帰って落ち着きたい――
いずれにしろ、生活の基盤がある土地に戻って日常をまた編んでいかねばならないし、
だからこそ異なる場所を訪ねる意味や価値が更に増す訳だ。
異国とは、たまに訪ねたり滞在したりして、実りを得るための場所だ。
国外でなくとも、この狭い日本にあってさえ、様々な文化や風習、言葉や地域性、気候や風景に溢れている。
数多の違いを楽しみながら、再び自分自身の紐づかれた場所へ帰り、疲れを癒して感じるのは「うちが一番」というヤツだろう。

土地と結びつくこと、他人とつながること、世代や性別を交差しながら時代を構築すること。
現代人は、何かしらに繋がれて「所属している安心・自尊」を感じるものらしい。
社会という大きな場で不安定にならない為には、繋がれている必要があるのだろう。

異国に居る感覚が、日常どころか人生に充満している。
どこに居ようが自分が紐づかれているのは「ここじゃない」のだ。
誰にも伝わらないのは重々承知なので解ってくれとは言わないが、僕の人生に「ホーム」は存在しない。
生きる限り、全ては異国を転々とするのと同義だ。
文化もコミュニケーションも言葉もモラルも価値観も、自分をその枠に合わせようと努力してもどこかが逸脱する。
馴染むことができないから、どこに行っても疎まれ忌避され排除される。
どう努力したとしても最終的には追われる身になると理解してからは、自ら去るようにした。
所謂「余所者」として生きていたが、更には「流浪者」に進化した。
世界の辺境をふらふらすることでようやく生きるだけは認められている、そういう存在。
社会に入って来るなというのが世界の総意だと心得て、土地にも他人にも集団(職場や学校等)にも決して近づかず。

つくづく自分の所属はこの世界じゃない。
言わば望まれてもいないのに長居している迷惑客みたいなものだ。
ややこしいのは、僕もまた望んでいないということだ。
この世界に居たくないのに、何で居るんだと煩悶する僕。
何でコイツ居るんだ、早く出ていけと催促する世界。
世界のどこにも繋がるものが無いとしたら、そりゃあもうまごうかたなきロングフルライフ。
間違いなんだから、修正しようぜ。ライフメーカー。
  • 記録
2019_05
12
(Sun)01:49

議論、討論、異論反論

人生で二度と体験することはないだろう、10連休というものを。
端的に言って、
警戒レベルがずっと上限値ギリギリをキープしてたおかげで、
連休も終わった今、僕は軽く胃潰瘍である

近くに他人が居ることが、これほど心身に重いとは…

昨日は知人宅でゴリゴリと言葉で鍔迫り合いしてきた。
ちゃんと言葉を交えていれば、たとえ激しい応酬になっていても遺恨めいたものは残らない。
まあ、議論であるからには、それが大前提だが。
その時のテーマを思い返すと、フィクションにおける時代考証や人物設定の詳細(外見や性格等)に
どれだけ重きを置くのかということだったが、議論の最中ずっと噛み合わなかった気がしてならなかった。
僕もだいぶ時代考証はうるさい方だと認識していたのだが、
更に上を行く厳密さでこだわりを見せた知人に対して、「んー、でもなあ」と首を傾げた。

フィクションにおける時代設定が明確であるほど、
該当する時代の風俗や文化、価値観になるべく沿うことをどうしても要求されるのが作り手の立場だ。
実際、歴史として過ぎていった時間のことであれば、「その時代」を作品の世界に組み込む理由が必要だから。
とは言え、「その時代」を経験した者がもうほとんど生きていない、或いは記録証言を得られない場合。
時代考証の定番ツールと言えば、やはり歴史資料や文献、学術論文、遺跡、当時の状況を何等かの形で保存したものが挙げられる。
それらの助けがあったとしても、それでも僕はどうしても思ってしまう。

「当時そこで生きていた、その時代その世界を体験した者にしか知り得ない事実。それが【本物】である以上、時代考証をどれほど緻密にしたところで本物は超えられない」

だとすれば、時代考証の定番ツールである様々な資料をどれほど読み解き作品世界に厳密に適用しても、
それは虚構の最高値であってそれ以上にはならない。
フィクションだから当然そうでしかないが、僕に言わせれば「本物じゃないならば適用の緩急はつけた方がいい」なのだ。

時代考証の結果を、どの程度作品に投影するのか。その匙加減を決めるのは、作品の目的だ。
その作品を世に送り出す時に、何を受け手に一番伝えたいのか。
一番伝えたい、解って欲しい部分が「歴史としての正確性」ならばドキュメンタリー要素が濃厚になる。
けれど、作品の一番肝な箇所がそこじゃないのなら、時代考証の厳密な適用に固執しても仕方ない。
制作期間、予算、規模などに応じて適用の緩急があって然るべきだ。
作品の目的がブレないようにするべきことは、一番伝えたいことだけに焦点を絞ることだ。

あと改めて気づいたが、僕はフィクションもリアルも、人物の属性には1㎜も関心が無い。
男女、年齢、職業、出身地、外見…。
それらは名前と一緒で、単なるアイコンでしかないのだ。
属性とは身に纏う服や装飾みたいなもので、その気になればいくらでも変化させられる。
変えられる部分ではなくて、それら属性を全部取っ払ったとしても残る芯、根幹。
僕が人物に興味関心を覚えるのは、あくまで芯だけだ。
その人が男か女か、なんてことには全く興味がない。

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