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2019_07
27
(Sat)22:31

ここは桜木町

桜木町がめっちゃ変貌しててだいぶ動揺し、挙句昼ご飯も補給できずという為体。

こういう集会とか、気が進まないなーと思いながら(なら何故東京から行ったんだと
参加してきた。

第4回「ともに生きる社会」を考える集会2019

主催はDPIではなく県内の実行委員会で、やまゆり園事件との関連からか、
全体的な内容としては知的障害/脳性麻痺の当事者や家族の問題に寄っていたかなという印象。
報道機関のカメラも入って(まさかバリバ●で抜粋されたりするのか?)キャパ300の会場ってのもすげえ。
4時間前後のトークや講演を、僕は、

とても興味深く拝聴した。

正直この手の集会ってただひたすら「聞かされる」だけで、ステージ上の論者と全くすれ違い続ける感が満載なんだけど、
あの、マジで面白かった。
本で得る情報、授業や講義で知るような勉強、そのどれでもない。
忌憚なく、自らの苦みを吐くように告発とも悔恨とも取れる言葉が会場に流れて、僕らは空気とともに吸い込む。

誰かに対して遠慮があっただろう。そこに触れる怖さもあっただろう。
禁忌に等しい領域に、それでも踏み込まないと、僕らは3年前の夏から進めない。
傷つけるのは嫌だ。傷つけるかも知れないことも嫌だ。
でもそれらを嫌だと避けてしまうのは、誰かを傷つけることによって咎められるのが嫌なだけだ。
「悪者」を背負えずに傷つくのが嫌なだけだ。

考え続けることは無論大事だ。でももう3年経った。考え続けることは大前提で、ここから先をどう動くのか。
敵は巨大で悪辣で、何なら鈍重で排他的だ。
この上もなく面倒くさい相手だけど、どれだけ時間を要するかも全く判らないけど、
――でも、やるんだよ。
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2019_07
24
(Wed)20:23

選挙SHOW

先日の参院選。僕の感想。
近年稀にみる面白さだった。

成人して以来、投票しなかったことは一度もない。白票もない。
どれだけ選択肢がないと迷っても、自分で投票の先を決めてきた。
そもそも選挙とは、「いい人を選ぶ」よりも「マシな人を選ぶ」制度だ。
投票する人間全てにとっていい人など居ないのだから、そんな理想の勇者ゲットみたいな考えは安直でしかない。
投票する人間がそれぞれの考えで、自分にとって少しでもマシな人を選ぶのがベターの中の最善であろう。

参院選当日は各地で雨に見舞われ、投票を鈍らせた一因にもなっただろう。
無論それだけでなく、選挙に関心が向かない理由があちこちに積みあがっていた。
それでも、今回の結果にはさすがに動揺した。
――世界が変わろうとしているのか、それとも。

まだ手放しで全てを喜べないのは当然のことだ。
でも現実、眼前で、とんでもなく果敢に(そして周到に地道に)戦いをぶっこんで来た者たち。
勝敗の行方がどうこうじゃなく、確実に「選挙ショー」を捩じ込んだことに僕は驚いた。
日本の選挙でそんなことが出来るなんて想像もしてなかったから。

常々、面倒事や煩雑な問題を先送りにしては巨大なツケを蓄積して恥じない連中を、
心の底から軽蔑してきた。
時間をかけて取り組みましょうとか、センシティブだからとか、言い訳にもならない言説で
切実な苦痛の訴えを退け続ける社会や人間を見限って、背を向けた。
世界なんかさっさと終わってしまえと願いながら。

目の前にふさがる山積みの諸問題。面倒だし、絶対時間かかるし、先の展望も不明瞭だ。
――でも、やるんだよ

僕がかつて教わった言葉、その意味を強烈に思い出させられた。
そうだった、淺越さんが仰っていた。「でも、やるんだよ」
まだ動揺も大きいし、逡巡も当然ある。何よりも、自分に役目なんてある気がしないのだ。
世界に絶縁状を放った立場からすれば、もうやることなんかねーよ、あとは命放棄だけだろと決め込んできただけに。
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2019_07
16
(Tue)15:28

僕は好奇心に勝てない

世界の外側――
僕が頻繁に言及するこの言葉が、具体的に何を指しているのか。
口にしながら僕自身が明確に見えるものとしては捉えられていないし、説明ができない。
地理的な意味ならば、この国の外なのだろうが、少なくともそれではない。
かと言って具体的な国名や地域が浮かばないのも事実だ。

ならばSF的な意味か?
平行宇宙やタイムマシンくらいしか想像できないけれど、
自分が生きている間にその技術はさすがに無理なんじゃないかと思うと、
信じたい一方で博打だと諦めるしかない。残念極まりない。
…まあ、マジでSF的手段で世界の外側に行けたら最高だけどな笑
失敗してももう嬉しくて許すレベル←

世界の内側――いまを生きる僕らが存在する社会、集団や団体、何等かの繋がりがある場。
人類の進化が様々なリスクを遠ざけた結果、内側は強靭な枠組に支えられて発展成熟を遂げた。
しかし枠組が時代にそぐわなくなり更新或いは大掛かりな工事を必要とする状況になっても、
内側で安心と権益を貪って来た者たちはそれらが減失することを恐れ、枠組へのいかなるメンテナンスをも拒み続けた。
その一方で枠組は歪に場当たり的な修繕を施され、気づけば融通も利かない、言わば内側の人間を締め上げる檻と化した。
人々にとって安心や快適を約束してきた枠組が、変化を拒む力や旧態依然を良しとする価値観を呑ませようとする暴力装置として機能するようになった結果、決められた枠組から逸脱する者を異端として断罪し排除する社会を作り出した。

変化のない場や集団は、いずれ腐敗する。誰かを恣意的な基準で裁いては追放し、意にかなう者だけを側近に据える。
何であれ集団や権力の中心にいる者の誤謬を指摘しない、無謬を疑わない、何も考えず追随するだけの木偶に囲まれていれば、どれほど賢明な者が中心にいても視界は濁り、己の都合だけが行動する動機になり果てる。
そこは、まさに「同じ考えを持つ者だけが集う世界」で、言ってしまえば「自分しか居ないコミュニティ」なのだ。
異質を、異者をことごとく排除した世界とは、人間が複数居ようが一人だろうが、自分しか居ない世界と同義だ。

こうなって来ると、社会学における「社会」の定義を再考する必要があるだろうが、
そもそも現代人が本当に「誰かと一緒にいる」ことを欲しているのか、必要としているのか。
常に誰かと繋がっていなければ生活ができないのか。
少なくとも今まで僕らの先祖あたりから連綿と営んできた、家族や学校や会社その他と言った、「誰かと一緒に居る」社会である必要があるのか否か。

上述した家庭、企業、学校等に共通するのは、固定的な集団であるということだ。
例えば地理的意味で言うなら、学校は一定期間その場所に通学する。
会社は転勤や転職があれば別だろうが、「〇〇社」に所属するという意味なら、場に固定されているとも言える。
家族や友人、また職場や個人の交友においては、特定の人物と固定的に関係を構築する。
固定した繋がりが一概に悪いものとも言えないし、人間がどうしても安定や盤石を他者との間に求めがちである以上、社会のスタンダードがそちらに寄るのも無理からぬことだ。
しかし、安定や盤石は、閉塞やしがらみと紙一重で僕らを雁字搦めにする。
「人は誰かと、何かと必ず繋がっていなければいけない」なんて、誰が決めた?
安定した、きちんとした繋がりでなければダメだなんて、誰が決めた?
繋がり方の基準なんて、それぞれが決めればいい。
それこそログイン、ログアウトと同じような感じで、自分が必要とするときに接続する/オフラインにする。
誰かと繋がるのは何のため?安心や快適や便利を求めるためだ。
繋がり方にケチつけられて、望まない繋がりや憂鬱なしがらみに苦しむためじゃない。

ほんと、このままじゃ、僕は世界の外側に出ていきたい気持ちをもう抑えられない。
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