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2019_08
10
(Sat)21:41

ひとりで戦う方法、模索

7月の桜木町からこっち、恐ろしく厄介な逡巡に纏わりつかれている。
知らねえよと跳ね除けるだけの思い切りを持てない自分に、何やってんだと舌打ちしている。
その一方で、他者と関わりを持つこと即ちトラブル発生のゴングであることも解り切っているから、
逡巡が勢いを増していく。

「でも、やるんだよ」

明確な言葉を眼前にしながら次に進めずにいる己の姿を、どこかで『カッコ悪い』と感じてしまう。
従来の主張として、理不尽に敢然と立ち向かう人々を「真っ当」「正統派の戦い」と評してきた。
皮肉ではない。
現代社会において集団を(その目的の為に)作って法制度や組織、慣習や精神風土を相手に変化を齎そうというのだから、
尋常ならざる手間のかかった戦法だ。
あらゆる集団の内側で発生する争いは、利害の綻びや些細な不和で容易く頓挫するか自然消滅するものが多い。
それだけ難しいのだ。集団の在り方を一枚岩に保つということは。
まあ、人類古来のオーソドックスな戦法でもあるのだけど。

個人的には、「集団を作って戦う」というやり方はもう卒業したらいいのにと思っている。
現代社会は、文字通り全ての人間が異なる利害やバックグラウンドやステータスを抱えていて、
しかも何かの為に己の持ち物を譲ることを避けたくて仕方ない人々で満ちている。
他者への配慮や気遣いを損失だと考えているし、全てを自力で賄うことを「自立」だと信じている。
助けたくないし、言ってしまえば助けられたくもないのだ。
他者を助けることは損失で、他者に手を伸べられることは屈辱なのだ。
とりわけ後者は問題で、一体誰にとっての屈辱なのかという言わば「視点と評価」の問題でもあるのだが、
そこに対して自覚的に見ているかどうかは分からない。

ともあれ現代は集団で戦おうとするにはあまりに向かない時代なんじゃなかろうか。
例えば政党政治なんて最早典型的なまでに、集団だの協力体制だのを語ろうとするそばからボロが溢れていく。
個々の政治家もまた背後に異なる利害や支持者たちの様々な要望を背負っている以上、その全てを叶えることの困難を知悉しているだろう。
そもそもひとつに纏めることなど不可能なものを、少数の/小さな言葉や要望をその手から零しながら無理に纏めてきた
――纏まれない時代の到来は、無理な同質化への牽引に対する抗いでもあろう。

僕は纏まらなくていいと決めている。
自分自身がそもそも他者と利害を共にし得ない存在で、誰かと繋がれる生き物でもないから、それ以外の結論なんか無い。
就職氷河期世代だの、中高年ひきこもりだの、あらゆる類の困窮に対してまず提唱されるのが「繋がる支援」と言うヤツだ。
地域社会、自治体の支援機関、その他とにかく声高に「他者と繋がる勇気」を要求するけれど、
その勇気は必要なのかと疑問を感じる。
繋がって協力し合って纏まって頑張ろう、という論法は最早過去のメソッドだ。
何故なら現代は前述のとおり、他者を助けるのは面倒で他者に助けられるのは屈辱な人々が、とても小さな自分だけの場所で生きている世界だからだ。
勿論、生活で必要な諸々の物資まで全て自給している訳ではないが、何かを購入する際にエンカウントするスーパーの店員や生産従事者とは別に繋がってはいないという認識だ。
誰かが作っている、誰かが売っているという知識はあるが、認識としてはとても希薄なのだ。
そういう意味では、現代人の認識する「世界」はとても小さい。
一人だけが住む星みたいに、面積はあっても他者との距離は果てしない。

――まだ集団で戦おうって考えてる?
これから先必要なのは、誰かと関わる勇気よりも、ひとりで戦う覚悟だ。
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