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2019_09
30
(Mon)17:36

選ぶという行為の惨さと強さ

これって学校は謝罪するようなことなのかと頭を傾げる僕です

死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪

まあちょっと現代っ子には刺激の強い題材ではあるけどね。
でも学校が頭下げることかと言うと、そんなこともない。
こんなことが記事になるのは、我々現代人が、大人も子供も「命を預ける/預かる選択」に対して逃げ腰であるという証拠だ。

トロッコ問題は典型的な例題だけど、他にも「冷たい方程式」「テロ」が挙げられる。
「冷たい方程式」は、SF小説等で頻出するテーマ。
1人乗りの宇宙船が宇宙飛行士を乗せて目的地に向かう途中、密航者の少女が発見される。
水や食料、酸素の積載量はひとり分(宇宙飛行士が着くまでの)しかない。
少女を船外に放り出せば任務は遂行できるが、同時に少女を見殺しにすることになる。
でも2人分の糧食や酸素は賄えないから、いずれどこかで尽きて死ぬ。
どうする?という問い。

「テロ」は、ドイツの作家シーラッハによる戯曲『テロ』。
こちらの方がよりトロッコに近いだろうか。
要はハイジャックされた航空機をサッカースタジアム上空で撃墜するか(観客や周辺住民、乗客が犠牲になる)
ハイジャック犯の要求を呑んで大都市圏まで飛行させるか(テロの目的はココなので、より多くの住民や乗客が犠牲になる)
…こっちの方がだいぶえげつないけど、この戯曲は観客参加型になり得る構成になっている。
このテロ事件にはちゃんと結末があり、テロ制圧に向かった軍人が独断で航空機を撃墜するという衝撃的な展開になる。
この軍人をどう裁くのかが、観客に委ねられるのだ。

単純に人数を想像するだけで、『テロ』のえげつなさとしんどさが圧倒的である。
人数の問題じゃないと解っていても、何故か僕は人数を想像してしまっている。
恐らくは大部分の人が、この「人数」や「誰を選ぶか」につまづくんじゃなかろうか。
(そこじゃない)と思うのに、不思議だよなあ。

普段の生活ではなかなか自覚できないが、僕らは当たり前に「誰かを選ぶ/選ばない」を繰り返している。
好きな人と両想いになるのは幸せと言えるが、別の見方をすれば他の誰か(もしかしたら自分を思ってくれてる)を選ばなかったということだ。
もちろん、”ほかの誰か”のために両想いの相手をわざわざフる必要はない。
それはそれで、眼前の相手を「選ばない」と同じことだからだ。
自分に思いを寄せる誰かにとっては、振り向いてくれないなんてひどいと嘆きたくなるかも知れないが、
選ばれなかったというだけのことだ。それは別に「人を選別するなんて酷い」ということにはならない。

ちょっと甘酸っぱい系の例えで僕が背筋寒くなったw
はい、ココで僕向きのサンプルー!

災害時の救急医療において、負傷者の治療順を決める「トリアージ」。
身も蓋もない言い方をすれば、治療して回復が見込める人間を優先して助けるために行われる方法だ。
負傷の度合が酷く、治療行為を尽くしてもある程度までの回復も望めないとなれば、その命は選ばれない。
全員を助けたいのが誰しもの願いだが、見込みのない負傷者に施す医療行為や医薬品を、より軽傷の者に回すことで「1人でも多く助ける」選択をする方がマシという考え方と言える。
地震や台風が災害となって降りかかるたび、この問題も取り沙汰される。
「目の前で重傷の家族が見捨てられる」と想像するだけで嫌な気分になる人も多いのだろう。
僕は人でなしと言われ慣れてるので言ってしまうが、
私情を優先して見込みのない人間に治療を続けるうちに、他の誰かが助かるチャンスを失うかも知れないとしたら、
それは救急医療として適切とは思わない。
命を選ぶのは、見捨てることと同義じゃない。助かる命をひとつでも多く拾い上げるしかない、そういうことだ。

例題の話がだいぶ長くなったが、変な情緒や感傷を優先するほうが、結果的に損なわれるものが多い。
この手の話に正解は存在しないし、その時の各自が下した判断を責めるほうが残酷だ。
肝心なのは、「選ぶ」ことを恐れないこと。
生きる限り何かを選ぶと同時に捨てることになるし、自分だけでなく誰もがそうである。
トロッコ問題を授業で取り上げたことはそれなりに意義あることだと僕は思う。
不安を感じた子供たちは(正直、ひ弱だなとはゲフゲフ)
…結局、僕ら大人たちがいつまでも逃げ腰でいるからいけないんだよな。

ちょっとばかし心を鍛えるためにも、つかもうちょっと柔軟な心になるためにも。
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2019_09
25
(Wed)13:57

他人から学ぶと地肩は強くなる

お笑い(に代表される笑いの表現全般)と差別的表現はいつだってスレスレなんだ。

「大坂なおみに必要なものは?」「漂白剤」人気芸人のネタに批判殺到 事務所は「配慮に欠く」と謝罪

最近の事例で言うと、とろサーモンの「更年期障害」発言からの業界ちょい揺れなんかも該当するだろうか。
お笑いのバラエティやライブイベント、さらに広げればコメディ演劇や映画、ドラマもそうであろうが、
総じて「笑い」という表現は、誰かを傷つけるような嗜虐を含む暴力的な性格を持つ。
シチュエーションコメディで典型的に見られる「困った状況に陥って右往左往する主人公」を見て僕らは笑うけれど、
あれは客席という安全地帯に居るから安心して笑っていられるだけだ。
フィクションだから笑ったっていいじゃない、という言い分もあるだろう。
勿論笑ってもらうための作品である以上、そこに罪を喚起しても意味はない。
肝心なのは、「困っている主人公を笑って見ている僕ら」という、己の立場の相対化だ。
誰かを笑ってニヤニヤしている僕らは、本当はとても意地が悪いし性格が悪いんだという自覚が、あるのかってことだ。

フィクション以外に話を移せば、例えば公衆の面前で笑われて恥ずかしい思いをすると言った場面。
笑う方に悪意がなかったとしても、それは単に「相手の羞恥心を感じるセンサーがぶっ壊れてる」だけだ。

他者の感覚に想像が全く働かない鈍感さ。
己の「笑う」が「嘲う」と同義に変質していることに無自覚な無知蒙昧さ。

ひとつひとつの事例を取り上げて「これはダメ、あれもダメ」と個々の表現に検閲を入れたって意味が無い。
問題なのは、「こんなのも差別なの?そんな認識なかった」で片づけてしまうことで、
結局過去に取り沙汰された事例から何ひとつ学ぶことなく同様の事例を拡大再生産していくことだ。

上記にリンクした大坂選手の件に関して言えば、いまどきこんなこと言うヤツいるのかと驚いた。
もはや肌の色を云々する表現がただの笑いネタとして通る時代ではないのに、
昭和のネタをまんま引っ張った感じが否めない。
例えばシャネルズとか、今絶対できないだろ。それが何故なのか考えもしないところに、無自覚の闇が在る。
Aマッソというコンビは恐らくシャネルズという単語すら知らなかった可能性が大だが、それとは無関係に彼らの悪意は潜んでいる。
お笑いの世界にもとっくに「そういう表現はダメだよ」という波は打ち寄せていて、
業界人は窮屈だと感じながらもそれぞれの表現で限界値を探っているはずだ。
どこがダメかというラインを知るには、結局過去のネタやNG表現の事例を遡るのが妥当な策だろう。
どれほど煩わしくても、「学ぶ」しかない。他人の経験を集めて得たものに、何を足していけるか。

笑いに限らず、誰も傷つけない表現なんてものは存在しない。
お笑いでネタを披露すれば、笑う客がいる一方で不快になる客もいる。
作り手にできることは、「作り手ゆえの罪」を背負いながら、誰かの「不快」を嘲笑うことなく強靭な笑いに改造すること。
「あれもダメ、これもダメ」じゃ表現の選択肢がしぼむだけだ。
使えない道具なら、使えるように改造すればいい。
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2019_09
17
(Tue)19:32

好き嫌いというフィルター

日韓関係のアレコレ。
何だろう、ここまで悪しざまに罵倒の字句がニュース見出しに並ぶ光景を、どう評すればいいのだろう。
真偽はもはやどうでも良くて、よりエゲツナイ悪口で捻じ伏せたほうが勝ち――みたいな絵面に見える。
そうでなければ「バーカバーカ!」「バカって言うヤツがバーカバーカ!」…所謂小学生のケンカだろう。

一国の政治担当がこういう絵面を日々展開している状況を、僕らは支持できるのか。賛同できるのか。
内容の是非や真偽は関係なく、どう考えても「ただのケンカ」でしかない。しかも全く美しくない絵面の展開w
僕は向こう側の報道については全く詳しくないのであくまでこの国の話に限るけれど、
こんな罵詈雑言を横溢させるメディア、尻馬に乗って虚しい気炎を吐くバラエティ番組やコメンテイターが雁首揃える画面を、
ひとりの人間として好もしく受け止めることなど到底無理だと言わざるを得ない。

国でも個人でも、露骨な悪意をここまで剥き出しにして相手にぶつける居方を、僕は信じる気にはならない。
しつこいが内容の真偽に関わらず、相手に対する敬意と礼節を欠いた言動で、他者の賛同や支持を得られるなどと思うのはとんだ思い上がりだ。
僕らが乗っている船は没落と凋落の象徴と成りつつある古ぼけたそれだ。
傲岸不遜で世界を肩で風切って歩けた時代は疾うに過ぎ去ったのだ。
自覚せよ。いまここで全ての他者に敬意と礼節を示さなければ、本当に世界全てから見捨てられることになる。
好き嫌いがあるのは個人も国家間も同じこと、利害が鞘当てされれば対抗したくなるし、自国の権益が害されれば憎悪も生まれる。
まして戦争がそこに挟まればなおのこと、国と個人と民族を巻き込む歴史の傷が埋め難い溝を形成する。
でも、好き嫌いと現実の状況判断は厳密に分けられなければならない。
過去から連なる現在、そして来たる未来を慮るときに、好き嫌いという感情は判断に絶対含ませてはならないものだ。
嫌いな相手ならば、なおさら。
嫌いという感情が、相手を見る目を曇らせる。やることなすこと気に入らなく思えてしまう。
でもそれでは相手を真っ当に評価することも出来ないし、相手の主張に真摯に向き合うことも出来ない。

嫌いなら嫌いでいいよ。でも、相手と真っ当に向き合う努力を放棄するなよ。
自分の勝手な「嫌い」を理由に、相手を対等じゃない信じるに値しないと貶めるのは、身勝手甚だしいよ。

嫌いな相手と上手くわたり合えるのが「大人」なんじゃないのか。
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2019_09
03
(Tue)22:54

9月1日の死は風物詩じゃない

毎年夏休みの終わりが近づくとあちこちで見聞きする。
「学校がつらいなら逃げろ」とか、ここに来れば良いと呼び掛ける図書館。
それでも必ず誰かしらが2学期の始まりに自ら死を選ぶ。

逃げろとか、ここにおいでとか、もはやそんな一時しのぎでは救えない命があることに気づけよ。
この日になるたび性懲りもなく「子供たちの尊い命が…」なんて、どういう風物詩感覚で言ってんだ。

逃げろとか、ここにおいでと呼びかけることを否定はしない。
それで助かるものならばいくらでも、と思うから。
僕が問題にしているのは、そんな一時的な措置で死を思い留まることが出来ない子供たちのことだ。

子供たちが抱える苦難の根源が学校か家庭かその他なのかに関わらず、
逃げること、また図書館等に向かうことが根本的な解決に結びつくのか。
僕は非常に疑わしく感じる。
逃げるってどこに?逃げ込める先があったとしていつまでそこに居させてくれるの?
衣食住や学校の勉強はサポートがあるのか?
図書館だってせいぜい1日の夕方までしか居られない。食事や寝るところ、お風呂までは用意していないだろう。
長期的に子供たちの将来を見据えるならば、このような一時的な方法では彼らの苦痛を取り除くことも出来ないし、軽減することすら出来ない。
そして一番の根深い闇は、子供たち自身が「一時しのぎ」の虚しさを理解しているということだ。
一時ならば誰かが庇ってくれる、ここに居ていいよと言ってくれる。
――でも、彼らの抱える困難を本腰据えて取り組んでくれる大人が居ない。
いずれは親元に、学校に戻ることになる。何も変わらないままで。
結末を知っているからこその絶望は深く、それ故に子供たちは何も伝えず自分の幕引きを決める。

大人たちはそろそろ気づけよ。
見限られているってことに。信用もされていないってことに。

不登校という選択がある現代を、自由だとか多様性だとか揶揄するヤツらも大概あほだ。
僕は不登校にはならず、何だかんだ大学まで行けた。
でもそれは、小中時代に「不登校」という選択肢が存在しなかったからだ。
不登校どころか当時は「登校拒否」という言葉が使われていて(何だろ、学校行かないヤツの方がフテてるような表現だ)
学校に行かない子供なんて悪事を極める鬼っ子扱いであった。
僕の場合は親も極めつけにそういう感じだったので、学校も家も種類が違うだけでひたすら地獄だった。
中学が終わるまで、塾の日はビルの階段を上りながら「いつここから飛び降りようか」と真剣に考えていたほどだ。
義務教育って本当に残酷だよ。
子供には何の力も無いのに教育機関は義務で、しかも筋金入りの監獄生活なんだから。
子供に人権があるなんて、親も教師も想像さえしていなかった時代の教育を、どうやって生き抜いたのか。
自分の事ながらあまり覚えていない。

現代を生きる子供たちのほうが楽だとか甘えてるとか、1㎜も思わない。
20世紀に存在しなかった技術や状況は確実に子供たちの心身を締め上げているのに、
いつまでも昭和の発想で子供を評価している野次馬どもが的外れな言葉で更に子供を追い詰める。
少子化ヤバいと吠えてる割に、子供を生かすと言うより積極的に死なせる方向に突き進んでるよなあ。

滅びたいんだろうか。滅びたいんだろうな。美学だと陶酔しながら滅亡に向かう愚民の群れ。
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