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2019_10
28
(Mon)19:11

改めて認識させられるの巻

週明けですねこんばんは僕です

先週土曜日、護国寺で行われた箱イベント。行きませんでした。
チケット捨てました。仕方ない、問い合わせに返答がないならどうしようもなかった。
個別返信は性質上ないだろう、とは思っていたのでそこは置いて。
何だろうね…芸能人のイベントやるのに公式サイトに注意事項の記載が無いのってさすがに怖いんだが。
同じ会社の別イベントでは公式サイトにきちんと記載されてたのに、扱いの格差よ…大丈夫か(

恐らく、フツーに行けばどうにかなってたとは思うんだ。
でもいざ入口で「入場できません」と弾かれたらどうすればいいんだろう、という不安から自由になれないままだった。
明文化されてないルールのために、自分が弾かれて、それに抗弁できないって、どういう状況なんだよ。

僕が引っかかるのは「自分の発信や行動が他人に認識されない」ことだ。
例えば問い合わせをメールしたり、窓口で質問したり。
言葉で明らかに相手の眼前に提示しているはずなのに、反応が無い。
コミュニケーション不全だとするならどっち側の話なのか(両方かどっちでもないのか)という問題も生じるけれど、
どうやら相手にとって僕の全ては「見えない聞こえない判らない、だから存在しない」であるらしい。
見えない聞こえない判らない=つまり「意味わからない、面倒くさい」だから無視してしまって良し、ということ。

いよいよ”僕だけがいない街”みたいな(アレは時間移動なんだけど

ここに居たくない。この世界は生きる価値が無い。
他人にとって僕は居ないし、僕にとってここは心底居たくない場所だ。


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2019_10
22
(Tue)23:05

自分が知ってればいい…のか

今週末、箱イベント2019が開催される(ようだ)
うっかりチケット取って、日が近づくごとに後悔が喉元にせり上がってくる。
スマホ認証チケットなのでキャンセルもきかず、つまり誰かに席を埋めて貰うこともできない。
マリンさんが当日券に切り替えてくれれば、キャンセル待ち狙いの人に代わってもらえるんだろうけどそれは期待できない…

チケット転売を警戒するのは仕方ないけど、ちゃんとチケット買った人が融通きかない事態に陥る弊害はどうにかならんのか。

そもそも何故チケット買ったかと己にツッコミ続けているのもしんどい。
考え無しに動くもんじゃねえな。
2年前に観劇をやめたのは、人がたくさん集まる場に行くべきじゃないと決めたからだ。
環境や状況に適応できない、盛り上がっている時に上手く合わせられない、変なところで笑って場を乱す…
諸々「状況の空気に合わせられない」己の性質を思えば、何でマジでチケット(机ダンダン

あと、これは生々しく認識せざるを得ない問題w
「若者が多く集まる場で薄汚い老兵が末席を汚すのはダメだ」
これは卑下とかネガティブとかいう問題ではなく、単純な事実の問題だ。
せっかくのイベントの客席、少しでも華やか賑やかに盛り上げてくれる存在がひしめいてる方が映えるし、舞台上の演者もテンション上がるというものだ。
歓声や拍手、コールも同様だ。躍動感や活気に満ちるさまは、到底ロートルが太刀打ちできるものじゃない。
演者的にはステージ上から客席を見るときに、薄汚ねえツラがチラついただけで内心うわーってなるじゃんw

…最後1行はだいぶ蛇足だけどwいいじゃん本音だしw

あとは、まあ、気にしすぎだと思いたいけど疑念を払拭できない問題
「入場拒否られたらどうする」
昨今のアレコレ考えると、あり得ない話じゃないわけで。
安室奈美恵さんのライブでね?本人確認がね?(以下略

せっかく出向いて入口で「入場できません」だと、さすがにダメージ皆無ではないのでな…

そんなことないよって言って欲しい訳じゃないんだ。
ネガティブを拾って欲しい訳じゃないんだ。
僕の発言は卑下でも否定でもなく、どうしようもなく事実なんだということだ。
善悪も好悪も是非も関係なく、単純に事実なんだ。
憂えているのは、その事実を”自分だけが知っている”こと。
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2019_10
17
(Thu)00:46

台風が来て、考える

10月の3連休、関東を直撃した台風。
想像以上の甚大な被害に、僕は凡庸に驚くしかできないでいる。
阪神淡路大震災、東北の震災と地震は一応経験しているが、台風で避難まで考えるところまで行ったのは初めてだ。
そして、「避難」という言葉に僕はひどく狼狽している。

東京に来て20年弱、何度か台風や豪雨による河川の氾濫などの災害に面することはあったが、実際に避難を想定して行動することはなかった。
今回だって、テレビやネットニュースで煽ってるのかと訝しむくらいに警告されているのを「そんなに言われても…」とズレた認識だった。
でも、初めて河川氾濫の警報を耳にして、マンションの住人総出で入口に土嚢を積んだ時。
「あ、これはマジで避難とか自宅の防災をやらなきゃいけないんだ」と実感した。
おぼつかない手つきでベランダの窓を養生し、浸水を防ぐためにビニールを貼り付けた。
念のためにと一時避難所へ向かう荷造りをした。

その時、ふと考えた

「お前、避難所に行くつもりか?」
「まだ生き残ろうとしてんの?」
「つーか、避難所に行って、お前が入れてもらえると何で思った?」
「よしんば入れて貰えても、すぐ追い出されるのに」

当たり前の顔をして、荷造りして、避難所に行くことを想定している自分に、吐き気がした。

生きようなんてまだ思ってんのか?
そして、当たり前みたく避難所に行こうとしてるのおかしいだろ。
入れて貰えるとでも?

――結論から言うと、僕は避難所に行かず台風をやり過ごした。
そして、台東区の避難所でホームレスが断られた旨の記事を見て、得心がいった。
そういうことだよ、と。

台東区はもともとホームレスや困窮者が多い事情もあって、行政が彼らに向ける目がそもそも冷たい。
いつもいつも煩わせやがってという苛立ちが、露骨な排除につながった。
でもこんなのは端緒に過ぎない。
今回ホームレスだったというだけだ。
何かを基準にして「避難所に入れていい/悪い」を決めて良しとするなら、そこにいろんな言葉を代入できる。
生活保護受給者、引きこもり、精神障害者、その他…

避難所という非常時の居場所に最も居て欲しくないものを挙げていけば、おのずと次の標的は見えてくる。

だから僕は「行政の支援」なんてものを無条件に信じてはいけないんだ。
「ただし●●は除く」が行間に存在することを忘れてはだめだ。
僕が入ってもいい避難所なんて無いし、そもそも助かるために行動する選択をするのがおかしい。
自分の不覚悟を強く戒めよう。




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2019_10
10
(Thu)19:20

学校は監獄、社会は地獄

いじめが原因で死ぬ人間が増えていく一方なのに、いじめが犯罪にならない不思議な国。

いじめ自殺した少年事件の先駆けが、東京の中野冨士見町にあった中学でのいじめであろう。
あの事件も昨今のそれと変わらず生徒同士のみならず教員も関わっていたわけで、
もう21世紀なのに根っこの腐り具合は何も変わってないことに言葉も出ない。

ここ数日メディアがはしゃいで報道している神戸市の学校内総動員いじめ事件なんて、見るのも嫌になる。
安全な場所で権力をふるっていられるならば、人はどれだけえげつないことだって出来るのだというクソ汚ねえ生き見本だ。
これが教育の世界だというのなら、子供は今すぐ国外で育てようと強く思うし、何ならそのまま戻らなくていい。
子供にとっては誰かを踏み殺さなければ卒業できない監獄、それが学校。
大人にとっては子供を守り育てる以前に自分が圧殺されかねない地獄、それが教職。
共通するのは、「誰も助けてくれない場所=学校」だ。
学校どころか、社会だって似たようなものだ。

勉学や部活じゃなくて、学校では「転んだら徹底して踏みにじられる。誰も助けてはくれない」日常を知る。
そんな場所で生き抜いたとして、大人になった彼らの認識する世界は、所詮その延長線上にしかない。

教育ってそういうものなのか。
助けを求め、理不尽を訴える者の言葉を無視して状況を放置した挙句に壊れたら部品みたく棄てて
「そんな事実はアリマセン/いじめの認識はアリマセン」を臆面もなく繰り返すのが、教育現場の上層なのか。
涙なんて生理現象だからいくらだって垂れ流せるし、そんな薄汚い液体はしまっとけ。
ずっと安全地帯から高みの見物を決め込んで薄笑いしてたヤツらが泣いてどうしようってんだ。
情状酌量でも乞うつもりならどんだけ浅ましい根性してんだろな。ああ、だから放置してられたのかw

泣く資格があるひとは既に教壇から去ってしまったのに。

僕は小中時代、時代の価値観も重なって手酷い管理教育の坩堝に放り込まれた。
所謂団塊ジュニア世代なら、まあまあ共感を得られるかも知れない。
学校は監獄と前述したが、全くもって比喩でなくそういう世界にいた。
生徒同士だけでなく教員も荒んだ場所で、気に入らなければどこで殴られるか判らないから学校では警戒レベルが常に上限値だった。
幸いにも高校で「学校は監獄とは限らない、教員は人間なんだ」という大発見を得たためどうにか成人に漕ぎつけた。
…それからだいぶ経つのに、いまこの状況は何なんだ。

この国でひとを育てるなんて、もはや絶望でしかない。
生んで育てる行為に散々横やりを刺された挙句にいつどこで殺されるとも知れないのに(教育機関も信用出来ない)。
いじめでぼろぼろにされても殺されても誰も裁かれないなんて、どうかしてるよ。

教育に対する信頼なんてとっくに消えたよ。あるとでも思ってたのか?思い上がりも大概にしろ。
信じてはだめだと学んだよ。あんたらの言動から。
自分の立場可愛さに他人をぼろ雑巾にする、その有りようから。
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2019_10
08
(Tue)17:22

人間の条件

人が人であることに条件や基準や承認など要らない。
それらを要求できる人間など居ないし、それらを義務付けられる人間も居ない。

認めて欲しいと願い過ぎて力尽きる者、他人に条件クリアを求めて無限に試し続ける者
彼らの視野にあるのは「他人の目に映る己の見栄え」でしかない。
いつだって彼らが気に病むのは他人の視線で、自分のための承認欲求ですらない。
他人に認められる自分 を 目に留めて 賞賛してくれる他人 を更に欲しているだけ。
そりゃあ死ぬまで満たされないよな。
この世にいる全ての他人(の承認、賞賛)が欲しくてしょうがないんだから。

そんなスケールでかくねえよと反論の向きもあるだろう。
残念だけど、誰かひとりの承認を得た者は、それで満足しないしできない。
だってそうだろ、自分を認める基準が常に他人に託されているんだから。
日々いろんな他人と出会う、別れる、また新たに出会うことを繰り返す中で、
その時々に下される他人からの評価はてんでバラバラだ。
Aさんは良いって言ってくれたけどBさんはけちょんけちょんにこき下ろした、って具合に。
どっちを評価として受け入れるのか、両方か、もっと違う評価を求めるか…
どうよこの不安定さw

自分のなかに物差しが無い恐ろしさを、ひとはあまりに自覚しなさすぎる。

繰り返すが、人間であることに条件や承認など要らないのだ。
何故なら人間は、そもそも自分で自身の証しだてをできる生き物だから。
自分の歩いてきた道、歴史、関わって来た物事、周囲の環境、過去から現在をつなぐ時間の中で、
「自分が自分である所以」が必ず形成されている。
自分という人間の「価値」として見いだせるものだし、価値とは主観だから他人の評価に1ミリも関係ない。
価値を知っていれば、他人からの評価や承認にいちいち振り回される必要がない。
聞く耳持つなってことじゃない。聞くだけ聞いておけばいいってことだ。
他人からの言葉は情報として貰っておく。取捨選択の権限は僕らの手にあるんだ。

「せっかく助言してあげたのに聞き入れないなんて」と文句言うヤツ、多いよなー。
”命令”じゃねーんだから、助言として発した以上、相手が無反応でも文句言う筋合いないだろ。
仮に命令やそれに準ずるものだとしても、本人には選択権がある。
聞き入れないなんてひどいと非難するヤツは、ハナから助言のつもりでなく”聞き入れさせる”つもり満々で相手に押しつけてるだけだよ。
そんな助言が相手にとって本当に意味のあるものか?
誰かのためを思う言葉であっても、相手がそれを拒む可能性を含めて「それでもいい」と思えないなら、口にしないほうがいい。



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