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2019_11
29
(Fri)20:11

力の及ばなさ、望むものの不在

ニュースサイトを日々流し見しながら、圧倒的な量の多さに驚く暇もなく、ただ胃の腑が重たくなっていく。
所謂ニュース(事件や広報と言った、本来的ニュース)だけじゃなくウェブコラムや個人の論説サイトもネット上に見つかることが「毎日大量」と思う原因だろう。
ネット以前ならば雑誌の片隅で読者の投稿コーナーくらいにはなりそうな凡記事が、SNSで取り上げられて共通の話題になりちょっとばかりはしゃぐのも、微笑ましいのかそれとも皆必死なだけなのかと。
ネット普及が人間関係を希薄化するなんて、もはや前世紀の迷信だ。
むしろ過去には見えなかった誰かと姿見えないままにつながって、正体不明の「社会」と紐づけられた気になって、虚ろな安堵を得る。

見えない誰かとつながりを得ようと必死にPCやスマホを操り、何がしか事が起きれば見えない誰かと手を取って(あるいは便乗して)どこかの誰かを叩きのめす。
そして見えない誰かの手によって自身が完膚なきまでに叩かれる可能性を恐れては、叩かれる前に標的を見つけて先んじるか、助けてくれる(であろう)見えない誰かを必死に探す。

これらの行動に共通する動機は”不安”だ。
可視化されないが確実に画面の向こうにいる誰か、という存在への不安。
社会という途轍もなく大きな正体の掴めない概念との紐づけに信頼を置ききれない不安。
誰が味方か敵か、いまは味方でもいつ立場が逆転するか判らない、何なら自分が他人から敵と見なされる可能性への不安。

これだけ膨れ上がった不安を抱えて、現代人はそれでも「死なない」だけの生活を己で支えなくてはならない。
ひとたび躓けば、それこそ誰も手を伸べない――自分など居ないように傍を通り過ぎる人だらけかも知れないのだから。
無力だ、と肌で感じる。
金で相手を従えることができるか、それ以外の絶大な魅力で人々の助けや支持を得られるか――
そんなもの無い(と結論づけている)、解っている。そもそも魅力だの財力だの持っていれば、その力を振るえばいいだけのこと。
己の無力を理屈でなく骨身に刻まれるとき、ひとはどう行動するのか。

僕は、相模原市のやまゆり園事件で植松氏を知った。正確には存在を知っただけで、会ったこともない。
事件当初、僕は「直接手を下したのは彼だが、その刃先にこもった力は彼だけのものではない」と述べた。
あのナイフはただの形で、世に多くあふれる悪意――障害者を無用として亡き者にしたい――の象徴でしかない。
植松氏が担い手として背を押されただけで、彼の背を後戻りできぬほど強く押し続けた声は今なお根強く潮流の如く、誰かを何かを押し流そうと謀っているのだ。
植松氏が社会で、職場で、己の無力を幾度となく繰り返し刻まれながら、それでも彼が無力さに抗おうとした時、眼前に在ったのはやまゆり園の利用者や家族だった。
やまゆり園――まさに無力と名指される者たちの集う場。
利用者は植松氏や職員の手を待っている(のかどうかも不明だ、確かめようもない)ようにそこに居る。
必要としているのか否かも確かめられない、意思疎通が現状かなわない者たちと延々向き合う日々。
植松氏は「自分が何か出来ているのか分からない」「手を伸べている者が己を必要としているのか分からない」無力を抱えた。
何事か為さねばならぬ、という無力の打開は、眼前の”無力の象徴”の向こう側に見えるものを打ち壊そうとした結果、命を奪ったのだ。

植松氏のナイフは確かに19人以上の身体を殺傷した。でも彼のナイフが刺そうとしたのは、その身体の向こう側にあるものだ。
正体不明の巨大な「無力をもたらす全ての不安」という、漠然とした、しかし確実に僕らに等しく圧し掛かる力だ。
じゃあ何故やまゆり園だったか?植松氏は元職場をなぜ選んだ?
それは実にシンプルで、園の利用者や家族は先述したように”無力の象徴”だからだ。
役に立たないから亡き者にしてしまえという悪意の潮流によって、勝手に無力とされてしまった存在が、眼前で彼の手を――
求めていたのかどうかも分からない仕種で、でも仕事は仕事でしかなくて、そこが分からないまま仕事はただの作業と化して彼の社会生活を重苦しくしていく。

何度も言うが彼が命を奪ったことを、僕は心底ダメだと思う。そこは償えよと思う。
相手自身のことならば、相手に確認と同意を取ってからだ、と思うから。
意思疎通が云々に関しては、植松氏がいちばん骨身に刻んでるだろうけど、僕は「意思疎通ってのは言葉だけじゃねえよ、言葉以外の方法を探るしかねーよ、そこは頑張れよ」と言いたいんだ。

――だから、植松氏には、死刑になんてなって欲しくないんだ。
死んでもらっちゃ困るよ。
戦うために死を選ぶのは、僕だから。
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