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2020_01
31
(Fri)19:15

同等の価値を持つ尊厳ではないから――「匿名報道」

【 #実名報道 】障害者「だから」匿名? 問われる報道機関の姿勢と異化してきた社会

昨年末頃から「匿名報道」に係る識者の論説が複数投稿されており、
事件(犯罪)と警察、報道機関、そして報道の受け手を巡る情報への触れ方が問い直されている。ように思う。
それだけ人々が情報の扱われ方に対して敏感に反応し始めているのだろう。自分のそれも含めて。
情報が過剰に溢れ返り、見知らぬ他人の情報にもあっさりアクセスできてしまう時代だ。
犯罪に限らず、例えば芸能人の結婚離婚不倫病気といった、俗の極みな噂話レベルでもまるで我がことのように盛り上がる人々が巷にあふれている。
誰もが情報の表出や流れに怖れを抱かざるを得ないのだ。
他人のゴシップはどれだけ嘲笑えても、自分のそれを暴かれ拡散される恐怖に勝てないのだから。
芸能人ならざる市井の者が不安を抱く”情報流出”は、報道される範囲に限れば、主に「犯罪報道」であろう。
加害者被害者いずれにしても、いったん発信されたが最後、プライバシー保護など意味なく全てを蹂躙される。
自身のみならず家族親戚友人知人、職場の同僚、果ては遠い昔の同級生――。
マスコミはあらゆる手を使って情報源を掘り返し「証言」を抉り、まるで誰かの伝記でも作ろうとしているかのように文字通り全てを白日に晒す。
加害者ならば国民の眼前につるし上げ、被害者ならば”生きた証”とやら名づけられた一生のアルバムを作成してこれまた晒し者扱いだ。泣いてあげるんだからありがたく思えとばかりに。

僕からすれば、報道機関=知る権利を担う者だから何をしても許されて当然、という勘違い甚だしい、覗き魔集団だ。
そして報道の受け手=無責任な野次馬だ。自分自身は安全な場所にいて、他人の人生に触れる情報をハイエナのように食い散らかしては”次を早く寄越せ”と口を開ける。”生きた証”を見聞きしては落涙し、「他人に涙出来る自分」に感動する。

双方に共通するのは、自分以外の誰かであれば、どれだけ暴かれようが構わないしそれが正義という思い込み。
――いつ自分自身が”晒される”状況になるか、全く想像していないからこそ、他人に対してはいくらでも残忍になれるのだ。
自分が暴かれる恐怖から目を背けて考えるのをやめ、延々他人を根こそぎ抉り取り続けているとも言える。

冒頭にリンクしたニュース記事を読んだ。
障害者だから匿名報道というのは「逆差別」ではないか、という趣旨(ちょいちょいそこから脱線してた感はある)の部分について、
僕の感じたことを下記に述べたい。

障害者が関係する事件について匿名報道が当然とされる風潮について、「逆差別ではないか」という主張。
一瞬、何かすげえデリカシーないの来たなあ…と思ったが、恐らく主張としては「個人の属性にかかわらず実名報道を基本とすべき」と言いたいのだろう、とムリヤリひねり出してみた。
もっと身も蓋もない表現するなら「健常者だって実名出してんだからお前ら障害者も実名出せよコラァ」なんだろう。
そうじゃなければ”公平じゃない”んだろう、この筆者にとっては。

でもそうだろうか?
この国で報道に身を晒す重さは、果たして国民全員に等しいものだろうか?
それこそ個人の属性に関係ないとしても、例えば著名人はそのステータスゆえに過剰な暴露を被っても「有名人だから当然だ」と一蹴されるように、障害や社会的困窮、家族、職業、ありふれた属性に紐づけられてはそれぞれの尊厳を蹂躙される。
障害者であることは(家族が障害者であること含め)、「当たり前の尊厳や自由や権利」を蹂躙されても当然という価値観をこの国に長らく根付かせてきた。
ここでは障害者に限るが、例えば生活保護受給者やひとり親家庭、虐待等も似たようなものだ。
健常者――正確に言うと、自分の尊厳や自由や権利を当たり前に享受して生きることが出来る人々――は、自分自身が生きているその状況が”誰だってみんな同じ”であると信じ切って疑わない。
法律で保障されているのだから国民全員がそれを享受していて当たり前、誰もが己の尊厳を尊重されて生きられていると思い込んでいる。
そんな訳がないだろ。障害者が長きにわたって様々な権利や尊厳を踏みにじられて来た、その歴史的経緯は存在する。
21世紀になってもなお”当たり前を否定されている”現状がある。
犯罪事件にかかわったとなれば、即座に犯人扱いキチガイ扱い不可触扱いの袋叩き。
被害者であればこれまた骨までしゃぶり尽くされるほどにプライバシーを抉り出される。
――こんな状況のなかで「逆差別」の名のもとに更なる暴露を強要されるほど、僕らは何かしたか?
”公平じゃない”からと言って、トレードオフとしか考えられない「逆差別」の指摘は、
僕からしたら所詮「当たり前を否定されたことのない人間の言い分」でしかない。
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2020_01
25
(Sat)20:19

脳内では何が

僕は孤独の価値を日々味わいながら、この先の去就をぼんやりと考える。
いつ死んでもいいように生きる、それを常に念頭に置きながら。
自分にとって必要なひと、ものだけを選んでそれらと共に生きる。
この身体の電池残量がゼロになる瞬間まで、僕は自分に備わった頭脳を使い尽くす。
――世界に何にも残らないくらい、燃やし尽くして消えたいのだ。

だから、『生きた証』など要らない。
誰かの記憶や記録などに残る必要もない。
立つ鳥跡を濁さずとはそういうこと。

僕の脳内。
言語野―言語中枢―が右側で作業している。
僕の左手は言葉やロジック、精神発達を構築し続けている。
一方で左側は生まれた時からずっと困り続けている。
そりゃそうだ、空間把握も感情処理も身体動作も左側がメインで担当しているのに、実際に動くのは右手なんだから。
僕の右手はポンコツの象徴だ。
立体も遠近も、僕には認識できない。つまり距離感覚がない。
さらには左利き。
どうだろうこのポンコツさ!

ポンコツなパーツがどれだけ頑張っても、できないことの方が無論多い。
できないことを責められてやり直したところで、パーツが全く不向きなのだから、何度リテークしても結果は×。
何と言うか、スプーン1本でスパゲッティを綺麗に巻いて完食しろと命令されているに似た無理感。

パーツ由来の不全に加えて、対人関係のトラブルに面した時の処理もやっぱりポンコツだった。
距離感覚のなさは、景色や物体を見る目だけにとどまらず、人との距離にも影響を与えた。
適切な接し方が分からずに他人をイラつかせ、不興を買う。
それによって疎んじられ排除されても、自分のなかでどう落としどころをつければ良いのか分からない。
漠然と”自分のせいなんだろうな”と感じるだけで、最終的にその場(集団)を離れることが解決になると学んだ。
――所属欲求や承認欲求が自分には認められないのだという論を得たのは小学生の時。

この世界でやり残したことなんて、あといっこだけだ。
死ぬことだけだ。
いつ来るか判らないけど、それまではとにかく頭脳をガンガンに使いまくっていたい。
孤独を得て、ようやく考えまくれるw
必要以上のひともモノも要らねえ。これが「孤独である」意味と価値。
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