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2019_04
12
(Fri)01:08

旅先で発見

先月末にひっそりと旅をしてきた。
1人旅はじつに2年ぶり、行先は長野・下諏訪。
かなり前にも来ているはずなのに、当時の記憶が全くない。

下諏訪での2日間、じっくりと街を歩きとおした。
勿論、真っ先に訪れたのはあの場所だった。
僕の中で、文献や史料に宿る存在だった人々が、眼前に生きた姿を想起させる程の現実に変わった。
維新150年、あれから何が変わったんだろうか。
そして、何が変わらず僕らの頭上に圧し掛かっているんだろうか。

歴史とは常に勝者によって語られる、ある種の「物語」としてパッケージングされたものだ。
勝者の栄光と劇的なストーリーの奔流に紛れて掻き消えるのは、いつだって名も残らぬ膨大な者たちのか細い言葉だ。
しかし、歴史が常に勝者によって語られるという事実は、勝者自身の正しさや倫理的な清潔さを保証するものではない。
勝者とは、その時代において風に乗った結果、後世からそのように名づけられただけの存在だ。
思想や主張の正否なんてものは誰にも判断できないし、歴史に名を残した者たちの為人や人徳も然りだ。
次の時代を迎えるためには、立ちふさがるバリケードを破る「力」と、バリケードを破ろうとする者を乗せる「風」が必要で、
それを手にした者が後世に名を伝えられる存在になる。

勝者ばかりが栄光と英雄の象徴として描かれる世界だとしても、
勝者よりはるかにたくさん存在している(いた)敗者の歴史的存在が不要だという論は乱暴が過ぎる。
「メインキャストじゃないのなら、いないのと同じ」と言っているようなものだから。

敗者とは、単に風に乗れなかった者、乗らない選択をした者だ。
その選択について、我々は間違っても「敗者は衆愚であり、間違った選択をした者」だとは断じ得ない。
誰もが生きるあいだ、ずっとずっと、事の大小にかかわらず何らかの選択を瞬間ごとに下しているのだから。
そこに正誤という物差しを当てたところで、意味はない。
歴史を語るにおいて確かにメインキャストとそうでないキャストは存在するが、
「メインキャストじゃないのなら、歴史の中には居なかったようなもの」では無い。

みんな主役、なんてうすら寒い世迷言はほざけない。
出身や所属、階級、年齢や性別、そういう各自の属性を取り外してから見えるものに、
僕はその人の歴史的存在を感じる。
薩長だけが維新の立役者じゃないし、彼ら無しで維新成り立たずなんて言う暴論には大いに異を唱える。

また機会を見つけて、下諏訪を訪ねよう。
その時は、彼らの墓前で伝えられる決意を抱えて行く。


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