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2019_06
30
(Sun)22:56

罰よりも重い荷を課す

6月末、台風が九州あたりで暴れているのを知りながら、津久井やまゆり園に行ってきた。
今回で3回目、ついにバスでなくタクシーを使うことになってしまった。
日祝のバスがそうそう頻繁に運行する訳もないのは承知の助、とは言え相変わらず遠い。
相模・津久井という湖、ダム、甲州街道沿いの宿場町(小原本陣)という地理上の特性もあって、
やまゆり園への道は1本しかない。当然周囲の住宅街も沢に架かる橋や道で市街地と繋がる。

来月7月は相模大野で追悼式があるし、やまゆり園前にも献花台が作られる。
ご遺族や関係者が多く集うであろう状況を考えると、ちょっと僕は引っ込んでようかなと。
――ある意味、部外者だからな。

花を捧げ、手を合わせ祈る人々。
ここ数か月、各地で起きた事故や事件現場でも見られた光景だ。
僕は花も祈りも捧げない。無論、理由がある。
花を捧げて死者を悼む気持ちを、否定する意図はない。
けれど、そもそも”花を捧げる、祈る、死者を悼む”という光景は、誰も望んでいなかったはずの未来だ。
死者には本来「生きている未来」があったはずで、彼らが欲するものは花や祈りではないはずで。
とりわけ、やまゆり園の件に関して言うならば、
彼らに花を手向けるより前に、「人間として当たり前の人生」を叶えるのが先だったはずなのに、
彼らが単独で移動するのが困難な山奥に集団で押し込めて、多様な世界や人々の存在も教えなかった。
結果として、彼らの命すら僕らは守れなかった。
どの面下げて死者に「守れなくてごめんなさい」なんて言える?
花や祈りを捧げてスッキリしたいのは、生きている者の勝手な都合じゃないのか?

やまゆり園で19人を手にかけたのは、もちろん植松氏だ。
彼の思想の中身はさておき、殺人については厳然と裁かれるだけの話だ。
巷では死刑一択という評が優勢で、当人も大体そうだろうとは予想しながらも「死にたくはない」と述べているようだ。
ブレねえな、あいつ(個人の感想

…死刑一択は、果たして妥当な予測なのか、それとも国民感情としての願望なのか。
死刑に処してしまえば全て終わると信じた過ぎる連中よ、
植松氏の命=被害者19人の命
という不思議な等号を認めるってことでOKか?

罪を犯した者に罰を課す。
ペナルティがあることを知れば追随する、模倣する者を抑止することが可能になる。
犯罪抑止において、もはや個人のモラルだけに100%期待することは無理である以上、
当然ルールやペナルティが必要になる。
それが上述の「罪には罰を」だが、罰の内容を罰であると認識しない者にとってはまるで無意味だ。
植松氏は死を積極的に望む訳ではないにしろ、仮に彼を死刑に処した場合、
命ひとつで彼は償う義務から解放されることになる。
――償わなくていいんなら、こんな楽なことは無い。
彼ならば、その結論を採るのではないだろうか。

罪に対するペナルティをこなして完遂することは、実はとても楽だ。
だって「ゴール」が明確だから。
けれど「償い」は、えげつないくらいに重い荷だ。
何故なら「償い」は、償う対象に認められてはじめて終了の笛が鳴る課題だからだ。
どれだけ努力や苦心を重ねても、受け手が「それじゃない」と拒めばそれまでだ。
何なら死刑よりも重い苦難の道であろう。
償うという行為は、結局は相手と心の底まで掘りつくす勢いで向き合うということだ。
相手と罪とに向き合う時間と、思考のたどる道こそが、罪を犯した者の救済につながる気がする。
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