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2019_08
14
(Wed)18:53

ひとりでやっていく

やはり正々堂々と戦う人たちには近づけないのだ。
程度の差こそあれ、優等生にはなれないし、真似なんて更に無理だ。
野良ロボですから(ドヤ

揺らぎと逡巡を自覚したものの、結論は「ひとり」に落ち着いた。
世の理不尽と真っ向から抗う人々を目の当たりにして、自分自身の姿をどこかでカッコ悪いと思いもしたが、よく考えずとも「カッコ悪い」とは他人から見た場合の話でしかなく、そもそもそんなジャッジをする他人とは誰なんだとツッコミ満載である。

俺の周辺に他人なんていねえ。

今までの人生を振り返ってみると、他人と関わりを持つこと、繋がろうとすることに関しては一度もできた試しがない。
これ以上の努力ははっきり言って時間の無駄だ。
まだ社会にいたころ、他人に近づこうとするときにいつも頭にあったのは
「今度こそ失敗しないように、うまくいくように頑張ろう」だった。
努力の内容や結果についてはさて置き、その背後には常に切実な願いがあった。

他人と関わりを作れる人間になりたい
他人にとって”居てもいい”人間になりたい

――半世紀近く費やしても、その願いは叶えることができなかった。
まして他人が叶えてくれる類の願いでもなかった。
まさに愚かな願いというものだった。
ロボットが血肉を備えた温かな肉体を欲するようなもので、”今、生きている自分”である限り実現不可能だ。

他人の承認を得られない存在だと判ってしまえば、もう他人に対して何らか望むことも期待することもしない。
社会的にはこの状態を「自己肯定感が欠如している」と解釈するのだろう。
しかし僕にとって自己肯定感や承認欲求は本当に必要なのだろうか?
上で挙げたふたつとも、社会参加や他人との関わりを求める人間にこそ必要なものだろう。
どちらも他人からしか得られないものだから。
そう考えると、僕にとっては絶対必要とは言えない。

他人からの承認やら許可やら無くとも、何なら僕自身が僕を持てあまそうとも忌み嫌おうとも、
それでも僕は存在している。
だから他人にとって意味のある人間になんか、ならなくていい。
人間でなくってもいい。日本の人口の「1」でも風景でも空気でも、何でもいい。
他人の目には何かのモノとしていっとき映るかも知れないが、僕という個人が他人に認識される必要はない。
もはや認識の外にいる者としては、他人に提示する「自分の取扱説明書」を作ることはないだろう。

僕は、やっぱり自分の正体を知りたいのだ。僕にとっての僕が何なのか。
そういう意味での「自分の仕様書」くらいは作ってみようかとも思っている。
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