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2019_09
03
(Tue)22:54

9月1日の死は風物詩じゃない

毎年夏休みの終わりが近づくとあちこちで見聞きする。
「学校がつらいなら逃げろ」とか、ここに来れば良いと呼び掛ける図書館。
それでも必ず誰かしらが2学期の始まりに自ら死を選ぶ。

逃げろとか、ここにおいでとか、もはやそんな一時しのぎでは救えない命があることに気づけよ。
この日になるたび性懲りもなく「子供たちの尊い命が…」なんて、どういう風物詩感覚で言ってんだ。

逃げろとか、ここにおいでと呼びかけることを否定はしない。
それで助かるものならばいくらでも、と思うから。
僕が問題にしているのは、そんな一時的な措置で死を思い留まることが出来ない子供たちのことだ。

子供たちが抱える苦難の根源が学校か家庭かその他なのかに関わらず、
逃げること、また図書館等に向かうことが根本的な解決に結びつくのか。
僕は非常に疑わしく感じる。
逃げるってどこに?逃げ込める先があったとしていつまでそこに居させてくれるの?
衣食住や学校の勉強はサポートがあるのか?
図書館だってせいぜい1日の夕方までしか居られない。食事や寝るところ、お風呂までは用意していないだろう。
長期的に子供たちの将来を見据えるならば、このような一時的な方法では彼らの苦痛を取り除くことも出来ないし、軽減することすら出来ない。
そして一番の根深い闇は、子供たち自身が「一時しのぎ」の虚しさを理解しているということだ。
一時ならば誰かが庇ってくれる、ここに居ていいよと言ってくれる。
――でも、彼らの抱える困難を本腰据えて取り組んでくれる大人が居ない。
いずれは親元に、学校に戻ることになる。何も変わらないままで。
結末を知っているからこその絶望は深く、それ故に子供たちは何も伝えず自分の幕引きを決める。

大人たちはそろそろ気づけよ。
見限られているってことに。信用もされていないってことに。

不登校という選択がある現代を、自由だとか多様性だとか揶揄するヤツらも大概あほだ。
僕は不登校にはならず、何だかんだ大学まで行けた。
でもそれは、小中時代に「不登校」という選択肢が存在しなかったからだ。
不登校どころか当時は「登校拒否」という言葉が使われていて(何だろ、学校行かないヤツの方がフテてるような表現だ)
学校に行かない子供なんて悪事を極める鬼っ子扱いであった。
僕の場合は親も極めつけにそういう感じだったので、学校も家も種類が違うだけでひたすら地獄だった。
中学が終わるまで、塾の日はビルの階段を上りながら「いつここから飛び降りようか」と真剣に考えていたほどだ。
義務教育って本当に残酷だよ。
子供には何の力も無いのに教育機関は義務で、しかも筋金入りの監獄生活なんだから。
子供に人権があるなんて、親も教師も想像さえしていなかった時代の教育を、どうやって生き抜いたのか。
自分の事ながらあまり覚えていない。

現代を生きる子供たちのほうが楽だとか甘えてるとか、1㎜も思わない。
20世紀に存在しなかった技術や状況は確実に子供たちの心身を締め上げているのに、
いつまでも昭和の発想で子供を評価している野次馬どもが的外れな言葉で更に子供を追い詰める。
少子化ヤバいと吠えてる割に、子供を生かすと言うより積極的に死なせる方向に突き進んでるよなあ。

滅びたいんだろうか。滅びたいんだろうな。美学だと陶酔しながら滅亡に向かう愚民の群れ。
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