腹を括って生きていく

この国の自殺率や自殺者数の数字がべらぼうなものとは周知のことで
簡単に自死できそうな錯覚を抱いてしまうけど、
この年まで生きてしまうと、自力でどうにかすることがかなり大変だと判ってしまう。
失敗を重ねるほどに難度も上がるし周囲も警戒してくる。

本気で頑張っても完遂できないことは多々ある。
僕は、全ての準備とタイミングとが絶妙に合致して――それこそギャンブル感満載――生きている自分の力を全部使い果たす勢いで”やって”初めて完遂し得る条件を満たすのだと考える。

望みを叶えることが難しいと気づいてから、僕の指針は「人生は死ぬまでの消化試合」になった。
生まれてきたことが大損の身としては、残り時間なんぞその程度と思わなければ、とても生きていかれないと思ったからだ。
半年後、1年後、数年先のビジョンすら持てない。
冗談や大げさではなく、1日を平穏無事に終えることを自らに課して生きてきた。
そんな人間に年単位のビジョンなんて考えられるわけない、「1日」が最大値なんだから。
そして1日を無事に過ごせるかと言えば、人生で一度もできなかった。
どこかで地雷を踏み、誰かに怒鳴られ殴られ、世界中から愚弄された。

自力で死ぬのも、生きるのも最早面倒になって数年。
消化試合という義務的な時間を、どうにか遊んでやり過ごすなかで、僕の感覚は過剰な鋭敏さを研がれていく。
聞こえすぎる。音がするたびサンドバッグにされたような痛みを覚える。世界中の音が自分を殴殺しにかかってくるような。
同時に嫌と言う程思い知らされる、「誰にも伝わらない感覚」だという事実と、「そんなこと知るか」という他人事の言葉。

生きていたくもないこのドブみたいな世界で、それでも試合をしている。
生きることを義務づけるならば、もっとマシな世界を提供しろや。
「ちゃんとしろ」と要求するならば、ちゃんとするに十分な世界で生まれたいもんだ。