2016_07
28
(Thu)21:50

消えることない感情を認めることから

引き続き相模原市の障害者施設での話。

差別感情というものは
そもそもなくならない。
障害者差別解消法が施行されて
昔よりバリアフリーが進み
企業の雇用枠に障害者が必須で組み込まれ

でもそれは法整備がジリジリと匍匐前進してるだけであって
各個人の心の中にまで踏み込める訳じゃないから
(当然、踏み込んで良いわけもないのだ)
「差別は禁止です」「障害者だからと言って劣っている訳ではないです」と
大声で叫んだところで、心の奥底で
(あいつらと一緒にするな)(障害者だからって優先されて当然と思ってんじゃねーよ)
薄らかでも確実に奥底の奥底で、蠢く情動は存在する。

当たり前だ。それはいい悪いの話ではない。
どうしたって否定もできないし、差別感情の存在に気づいたからと言って削除もできない。
人間が人間である前提として
「自分は他人とは違う」
「自分は他人より優れたところがあるし、他人より優遇されるべきだ」
自分とそれ以外の区別ができる機能が脳にも精神にも備わっている以上
自分以外の人間と出会った時に
「区別―差別」の作業が起きるのは当然だ。
それがなければ、
「あいつよりもっと上へ行ってやる」
「優れた先達にもっと近づいて、超えたい」
言わばプリミティブな向上心や高みを目指す意欲が、生まれないということになってしまう。

進歩も進化もなくなるのだ。
人間としてそれは、有り得ない。

(あるとしたら、それはもう、全体主義という精神の麻薬漬けの成功例だろう)

差別はなくならないし
この国の得意技だ。

声高らかに差別しますが何か?…という人はあまり日常ではお目にかからない
世間体もあるし、社会人として個人としての評価にもかかわることだから
大声で言えないぶん、SNSでの攻撃的発言や、リアルなら居酒屋の個室で放言するくらい。

健常者の中には「そんなこと思わない!」と必死に真剣に反駁する向きもあろう

でもね
こういう事はないですか?

遅刻寸前で乗った通勤電車が停まった駅でアナウンス
「お客様ご案内します」静かに乗り込む車椅子のひとを見て
(急いでるのに車椅子とか勘弁してよ、空気読んで別の時間にしてよ)

あるいは道路歩いてて、つまづいた
足許に黄色い点字ブロックのでこぼこ
(歩きにくいんだよ!)

あるいは電車の窓際で
ずっと独り言をつぶやきながら独りで笑ったり、奇声を上げたり、歩き回ったりするひと
(ぶっちゃけキモイし怖いからこっち来ないでよ)

そんなことで?って思いますか?
そんなのが「差別」に該当するの?って思いますか?

これがなければ、自分たちは快適だし、楽なのに
障害者のために整備するものがなければ、税金や公的支援はもっと他の有意義な事に使えるのに
あんな人たち、公共の交通機関を利用させなければいいのに
――そう感じたら、そういうことです。

いい悪いは置いて、という話です。
だから健常者は、こういう感情が奥底の奥底にあることを
へど吐くほど嫌でも、怖くても、認めるしかない。
その奥底のものを認める、知る
でなければ、障害者と共生するとか、解り合おうと歩み寄るとか、ただの綺麗事。
我々と話をするそのテーブルにつく気構えさえ、生まれはしない。

スポンサーサイト
«  HOME  »