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2017_03
20
(Mon)21:02

アガリスクエンターテイメント/MUのこと

アガリスクエンターテイメント『時をかける稽古場2.0』初日まであと2日だそーで。

そして僕は私見まみれのこんなしょうもない比較記事を書いたりしているわけで。

2010年~MU、2011年~アガリスクエンターテイメント
この2団体と出会い、僅かながら関わった記憶と記録、
そうした経験からぼんやり考えていたことを
主宰のおふたりの目に届くか否かは知らんがなで、
記録しようと思う。

出会ってからずっと変わってないのは、どちらの団体も僕はとても大好きという事
役者の○○さんが、とかでなく、団体で好きだ。劇団として好きだ。

あ、とても長いので気をつけて笑

アガリスクとMUは似ているとハセガワアユム氏は言った。
何が、という具体的な部分への言及はないが、似ていると言うのはどういうことだろう。
書くものが違うのだから当然だが、作風や作劇の構造はかなり異なって見える。
しかし物語世界を構築するロジック(そのロジックに絡ませる倫理や道徳的部分含め)
そしてロジックを組み立てる為の思考的作業の方法論は恐らく近い動線を通っているように思う。

ぱっと見、作品群には共通項が無さげだが、おそらく背中合わせになっているのだ。
1本の線を引いてそこに冨坂友氏とハセガワアユム氏を並べたら明確になる。
背中合わせで違う景色を見ながら違うジャンルの作品を生み出しているのだ。

アガリスクは(狭義の)恋愛や家族ものをほぼ書かない。
例外として
『出会わなければよかったふたり』、
『異性人』
(狭義恋愛もの)

『ファミリーコンフューザー』、
『無縁バター』、
『わが家の最終的解決』
(家族もの)

旗揚げから初期の作品には若干ラブコメ仕立ての恋愛要素が見られるが、
少なくとも『ナイゲン2012年版』以降では本公演で恋愛を取り上げていない。
恋愛が物語に深く食い込む要素としては描かれず、あくまで小ネタとして場を回したり
ウケるための仕掛けのキッカケとして用意されるに過ぎない。

『異性人』はそういう意味で恋愛をキッカケ扱いにせず、
むしろ主軸くらいの扱いで「恋」を巡る当事者たち、
そして無関係の「周囲の善意な人々」による偏見や揶揄を客席にぶつけて笑わせ、
かつ笑われる者/笑う者をコメディの渦中に放り込んだ。
異性人が異色かつ触れ難い作品に見えるのは、
セクシャルマイノリティや宇宙人が、【距離を置いておけるのならば、寛容に扱ってやる】と
「普通の人」が「自覚なき悪意」に落ちた目で評価しがちな種類の生き物に恋を反映した作品だからだろう。

家族ものに関しては、『ファミリーコンフューザー/無縁バター(再演)』に際して収録されたラジオで
冨坂氏自身『家族ものを意識しようとしたがあまりぴんと来なかった』趣旨の発言があった。

なおファミコン、無縁ともに機会があれば再演したいとも発言している。
無縁バターは2011年既に再演されているが、ファミコンは2011年初演以降特に触れられていない状態だと思われる。

コントレックス等の短編コントについてはここで触れていないが、
短編については、再演や再構成を重ねて作品を育てる姿勢には準じているが
恋愛や家族と言った扱う要素で区分し得る作品が少ない。
短編は元々のACのコンセプト「実験的」が貫かれている以上、実験要素が強い作品がほとんどだ。
言わば全ての要素はコメディを作るパーツである。

恋愛と家族ものが無いと言いつつ例外ばかり挙げてしまったが、
アガリスクにおいて恋愛ものも家族ものも、
その要素をメインに据えて描かれた作品は現状少ないと言って差し支えない。
アガリスクと言えば学園ものと言うイメージを抱くファンも多数居そうだ。

逆にMUは学園モノを書かない。
こちらも例外的に
『いつも心だけが追いつかない』
『90%VIRGIN』
『ミロール』

『ミロール』以外は短編であり、かつMUファンに周知の作品かと思う。
学園ものとして描かれているが、あくまで「ブッ壊れた」が頭につく、
作家によって「壊す」こと前提の学園という場所や人間を使って作劇されているように感じる。
壊すこと前提の「学園」は当然作家によって守られないので、
倫理や常識が覆ったり学校全体(教師も生徒も)が狂った状況にあることも通常運転だ。

(逆にナイゲンや紅白旗合戦の学校は壊すこと前提での場所設定はされていない。
むしろ生徒や先生によって「守られる」「守るべき」存在として学校の思想=国府台高校の精神=が頻出するのは、
アガリスクファンには周知の事実だろう)

MUと言えば恋愛、というファンはこれまた多数だろう
先述のミロールも、どちらかと言えば恋愛ものであり、かつセクシャルマイノリティが登場する。
学園と言う要素は、劇中の過去において高校時代の出来事が重要な意味を持つから抽出し得る要素だ。

アガリスクは学園(主に国府台高校)や青春を書く
MUは恋愛や家族を書く

双方の書くジャンルと書かないジャンルがぱっきり分かれている。
どちらの作品にも共通して存在するのは
広義の「愛」だ。

ナイゲンや紅白などつまりは国府台高校シリーズ、では「仲間意識」「高校ならではの一時的な繋がり」「精神的同族の連帯」
ファミコン、無縁バター、異性人、わが家、では「広義の愛情」「血縁や書類上の家族から少し延長した部分で生じる愛」
時かけでは「仲間意識」「過去から現在、未来に続くだろう同族愛、擬似的な家族愛」

少年は銃を抱く、無い光、今夜だけ、が「広義の愛情」「昔からの仲間と継続する同族愛や仲間意識」
ミロールやいつも心だけが追いつかない、にはうっすら青春の影が差すような「仲間意識や擬似的な家族愛」

冨坂友氏、ハセガワアユム氏
互いが書かないものを書いている。
たったふたりで世界を球型に完成させようとするように。
地球上、ふたりがまっすぐ歩き続けたら、中間地点で出会ってしまいそうだ。
―でも、出会うことはないだろうな、とも思う。

ふたりの最大の共通点
「やめることができない」ひとたちだから。
たとえふたりがまっすぐ歩いても、作品が生まれるたび、やりたいことが増えるたび。
きっとその分工程は増えて、距離も伸びていく。
だからけして出会わない、そうであるように作品を生み出すだろうから。
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