2017_06
16
(Fri)23:13

低いハードルは正義

この世界におけるたくさんの禁忌、に対する僕のハードルが著しく低い。と主治医は言う。
僕はいっこだけ異議を唱えとく。

ハードルが低いんじゃない
必要無いけどこの世界のルールに従っておくために
便宜上ハードルを設置しているだけだ。

まあ、だからそのハードルってヤツはかなり適当に作ってあるだろうね。
ちょっと触れたら崩壊するくらいに、たやすい壊れ方を。

いちばんアンタッチャブルなハードル案件として今回紹介するのは

「死んだら負けだよ。死んだら全て終わりだよ。何もなくなるんだよ。
逃げてもいいから、死んではいけない。生きてほしい」

上記の文言にすっげえ違和感がある。
死んだことのないヤツにそんなこと言われても、説得力・信憑性いずれも皆無だ。
むしろ、死んだ人がけっしてこちらへと再び戻って来ないこと、我々に会いに来ないこと

――それこそが、信じるに足る答えじゃないか。

意思で戻らないのかも知れない、規則で戻れないのかも知れない
いずれにしろ 大事なのは「二度と会うことはかなわない」

霊魂だのスピリチュアルだの前前前世だのを崇めていようがなかろうが
会えないと知っているから崇めたくなるし、会えないと知っているから墓参りするのだ。

「死んだら負け、死んだら全て終わり」とはつまり
「生きることが正義、人として正しい道」という宗教である。


先述したように、死んだ経験者が居ないはずのこの世界で
何故こうもたくさんの人々が、「生きることが正しいこと」教の狂信者に成り果てているのか、
不思議で仕方ない。
いや、まあ信じることは勝手にしてくれ。
こちらにそれを強いるな。

厄介なことに、この宗教は世界に蔓延する病として人々の思想を硬直せしめている。
生きることに困難を抱えて苦しむ人たちを「生きることこそ正義」という価値観で、
死へと追い詰めている。
「死んだらダメ、死んだら負けだ」とは言い換えれば「生きられないのはダメなヤツ」である。

おかしいね、人として最低限の文化的経済的な保障が為されるはずの先進国で
生きること自体に困難を抱えて苦しむ人々がいる
死にたいという明確な意図も望みも無い、ただその瞬間をようやく呼吸している人々に対して浴びせられる
「死んだらダメだ、死んだら負けだ」の大合唱は、彼らの耳にどんな曲として聞こえているだろう?

「生きられないのは、生きる能力がないヤツ、ダメなヤツ」

生きながらにして自分自身の葬送行進曲を聞かされる、どんな気分だろうか?

生きることは確かにひとつの正義ではある。
だが、絶対の正義にはなり得ない。
生きることと同様に、死ぬこともまたひとつの正義として存在している。
死は「ケ」ではない。
日本人は、死を、あまりに長いあいだ「ケ」として視界から排斥して過ごしてきた。

その代償はもう多々眼前に、転がっているはずだ
視界に入れようとしていないだけ。







スポンサーサイト